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6.生命の道

第53章

「のどが渇いている者は、わたしのもとに来なさい」というキリストの言葉の説明。

 あなたがたはみな、わたしの「真理」が神殿で、望みと不安とにかられて、「のどが渇いている者は、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしは生ける水の泉です」(10) と叫んだとき、全体的にも個別的にも、招きを受けた。かれは、「父のもとに行って飲みなさい」とは言わないで、「わたしのもとに来なさい」と言った。それは、苦しみは「父」であるわたしに降りかかることはないが、わたしの「子」には降りかかるからである。あなたがたも、この死すべき生命において、遍歴し旅するあいだ、苦しみなくしては歩くことができない。なぜなら、すでに話したように、罪によって地上にいばらが生じたからである。
 それゆえ、「わたしのもとに来て飲みなさい」と言ったのである。なぜなら、あなたがたは、掟を守り勧めを精神的に受けいれることにより、あるいは、掟と勧めとを現実に実行することによって、かれの教えに従うならば、すなわち、どの道をたどり歩くにしても、完全な仁愛あるいは普通の仁愛によって、かれの教えに従うならば、飲むものを見出すことができ、神性と人性との一致による「血」の実を見出して味わうことができるからである。あなたがたは、かれのなかにいるならば、平和の大洋であるわたしのなかにいる。なぜなら、わたしはかれと一つであり、かれはわたしと一つだからである。このように、あなたがたは恩寵の生ける水の泉に招かれているのである。
 それゆえ、あなたがたの橋になったかれを通らなければならない。そして、堅忍をもって歩かなければならない。いばらも、逆風も、繁栄も、艱難も、その他どのような苦しみも、あなたがたに、うしろを振り返らせてはならない。あなたがたは、生ける水を与える「わたし」を見出すまで、堅忍しなければならない。わたしは、この生ける水を、愛の甘美な「言葉」、わたしの「ひとり子」のなかだちによって、あなたがたに与えるのである。
 ところで、かれはなぜ、「わたしは生ける水の泉である」と言ったのであろうか。そのわけは、かれは、神性と人性との一致によって、生ける水を与える「わたし」を湛えているからである。そのうえ、かれはなぜ、「わたしのもとに来て飲みなさい」と言ったのであろうか。それは、あなたがたは苦しまないで通ることができないし、苦しみはわたしには降りかかることができないが、かれには降りかかることができるからである。そのうえ、わたしは、わたしの「ひとり子」を、あなたがたの橋にしたのであるから、だれも「かれ」を通らないで「わたし」のもとに来ることができない。これはわたしの「真理」が言ったとおりである。「わたしを通らなければだれも父に行くことができない」(11)
 以上話したことによって、あなたは、どの道を取らなければならないか、これをどのように歩かなければならないか、なぜ堅忍をもって歩かなければならないかを悟ったにちがいない。堅忍がなければ、生ける水を飲むことができないであろう。なぜなら、堅忍の徳によってこそ、永遠の「生命」であるわたしのなかで、栄光と勝利の冠とを受けることができるからである。

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