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7.不完全な愛

第59章

橋の第一の階段によって象徴される奴隷的な恐れから第二の階段にのぼることについて。

 すでに話したように、だれも、三つの階段をのぼらなければ、橋を渡ることも、河から脱け出ることもできない。ところで、ある者は不完全にこれを渡り、ある者は完全にこれを渡り、ある者はきわめて完全にこれを渡る。これが真実である。
 奴隷的な恐れによって動く者は、不完全にこれを渡り、不完全にその諸能力を結集する。すなわち、霊魂は過失のあとに続く苦罰を見て、立ちあがり、その諸能力を結集する。その悪徳を思い起こすために記憶を。自分に加えられることが予想される罰を注視するために知性を。罰を嫌って逃げるために意志を。
 これは第一の渡橋であり、諸能力の第一の結集であるが、これを、知性の光明に照らし、至聖なる信仰の内的な目をもって、実行する必要がある。奴隷的な恐れを脱却して、この渡橋を、愛をもって、情念の足によって実行するためには、罰だけを眺めることなく、善徳の報いとわたしの愛とを眺めなければならない。
 このように行動するならば、不忠実なしもべでなく、忠実なしもべとなり、恐れによってではなく、愛によって仕えるようになる。もしも、自愛心の根を憎しみをもって引き抜き、賢明と恒常心と堅忍とをもってこれにあたるならば、成功するにちがいない。
 しかし、いかにものろのろと渡橋をはじめ、わたしに対して果たすべき債務を、いかにも不完全に、いかにも怠慢に、いかにもおろかに果たし、突然逆戻りする者が多い。かれらはわずかの逆風がその帆にあたっても、引き返す。十字架につけられたキリストの第一の階段をいかにも不完全にのぼったために、その心である第二の階段に達することができないのである。

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