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8.完全な愛

第75章

不完全な人々は「父」だけに従いたいと思うが、完全な人々は「子」に従うことについて。──この霊魂が受けた示現のなかで、種々の洗礼とその他の美しいこと、有益なことを見たことについて。

 私はあなたに、かれらが外に出たことについて、かれらが不完全を去って完全に達したことを見分けるしるしについて、語った。
 知性の目を開いて、かれらが十字架につけられたキリストの教えの橋を走って渡るのを見てほしい。これがあなたがたの規則、道、教理である。かれらがその知性の目の前においているのは、「父」であるわたしではない。ところが、不完全な愛にとどまる人々は、その知性の目の前に「父」をおいている。かれらは苦しみを堪えるのを好まない。わたしには苦しみはない。それで、かれらは、わたしのなかに、たのしみだけを追求しようとして、わたしに従う。かれらがわたしに求めているのは「わたし」ではなく、わたしのなかに見出すたのしみである。
 完全な人々はそのようにはしない。かれらは、愛に酔わされ、燃え立たされて、霊魂の三つの能力を全般的に象徴する橋の三つの階段を一つにしてこれをのぼる。この三つの階段はまた、わたしの「ひとり子」、十字架につけられたキリストの体を現実に象徴する。霊魂は、その愛情の足によって第一の階段をのぼり、キリストの足に達したのち、その脇腹に達する。そこで、心の秘密を見出し、「血」の功徳をもつ水の洗礼を知る。そのうえ、そこで、「血」と一つにまじり合った恩寵を受ける器を準備したのち、聖なる洗礼の恩寵をさずかる。
 霊魂は、「血」の功徳によって洗礼をさずかり、「小羊」の「血」と一つにまじり合っているというその尊厳を、どこで認識するであろうか。神的「仁愛」の火を感じる「脇腹」においてである。あなたもおぼえていると思うが、わたしの「真理」は、あなたが、「優しくもけがれなき『子羊』よ、あなたは、脇腹が開かれたときは、死亡していました。それなのに、なぜ、あなたの心が傷つけられ、開かれるのを望まれたのですか」とたずねたとき、これを示した。
 そのとき、かれは、あなたもよく憶えているとおり、つぎのように答えた。「多くの理由があるが、その主なものについて話したい。わたしの人類に対する望みは無限であった。ところが、苦しみと拷問とを凌ぐという現在の行為は有限であった。この苦しみによっては、わたしがどんなにあなたがたを愛しているかを示すことができなかった。わたしの愛は無限であったからである。それで、わたしは、わたしの開かれた心を示して、その秘密を見せたいと望んだ。有限な苦しみによって示すことのできなかったわたしの愛を見せたかったからである。流れ出た血と水とは、あなたがたが『血』の功徳によってさずかる聖い水の洗礼を象徴していた。
 「それはまた、血の洗礼をさずかるのに二つの方法があることを示していた。一つは、わたしのために流した自分自分の血のなかで洗礼をさずかった人々の方法である。他の人々は、愛によって、洗礼をさずかりたいと望んでも、これをさずかることができない。そのような人々は火によって洗礼をさずかる。『血』によらない火の洗礼はない。『血』は、神的に愛の火と一つにまじり合っている。なぜなら、この『血』は愛によって流されたからである。
 「血の洗礼をさずかるもう一つの、象徽的な方法がある。これは、わたしの神的『仁愛』の特別な配慮によるものである。わたしは、人間がわたしに背くのは、その弱さともろさとのためであることを知っていた。その弱さあるいはその他の原因が、望みもしないのに、いやおうなしに、わたしに対して過失を犯させるわけではない。しかし、人間は弱いから大罪に落ちるのである。人間はまた、血の功徳によって聖い洗礼のなかでさずかった恩寵を失う。それで、神的『仁愛』によって、絶え間なく、血の洗礼を定め、心の痛悔と聖なる告白とによって、これをさずかることができるようにする必要があった。この告白は、できるならば、『血』の鍵を委託されたわたしの司祭におこなうものであり、司祭は、この『血』を、赦しを与えることによって、霊魂の顔に注ぐのである。
 「もしも、告白が不可能ならば、心の痛悔で十分である。わたしの『寛仁』の手は、そのとき、この貴い血の実をあなたがたに与える。しかし、告白することができる者は、これをおこなわなければならない。できるのにおこなわない者は、『血』の実をさずかることができない。臨終のとき、告白したいと望んでもできない人が、『血』の実をさずかることは、事実である。しかし、だれも、この希望に支えられて、問題の処理を最後のときまで延ばすほどおろかであってはならない。なぜなら、その頑迷さのゆえに、わたしの神的な正義によって、つぎのように宣告されないという保証はないからである。『あなたは、生涯のあいだ、可能であったのに、わたしを思い起こさなかった。わたしもまた、あなたの死のとき、あなたを思い起こさない。だから、だれも、延期してはならない。しかし、自分の過失によってそうした人も、最後まで、『血』のなかで洗礼をさずかる希望を放棄してはならない (1)
 「あなたもわかるように、この洗礼は継続している。霊魂は、すでに話した方法で、最後まで、受洗しなければならない。この洗礼におけるわたしの業、すなわち、あなたが洗礼においてわたしからさずかったわたしの苦しみの実は無限である。それは、有限な人間性と一致した無限の神性の功徳による。この人間性は、あなたがたの人間性をまとった『言葉』であるわたしのなかで苦しみを凌いだ。この二つの本性は、たがいに一致結合しているので、永遠の『神性』は、わたしがあれほどの愛の火によって凌いだ苦しみを引きよせて、これを自分のものにしたのである。
 「わたしの業は無限であると言うことができる。わたしの肉体が堪え忍んだ苦しみは無限ではなかったし、あなたがたのあがないを成しとげたいというわたしの望みによる苦しみも無限ではなかった。この苦しみは十字架上で、わたしの霊魂が肉体をはなれたとき、終わった。しかし、わたしの苦しみとあなたがたの救いに対する望みとから生まれた実は、無限である。それで、あなたがたは、無限にこれをさずかることができる。もしも、無限でなかったなら、全人類、すなわち、現在、過去、未来の人間の復興はできないであろう。この『血』の洗礼が無限に与えられなかったら、すなわち、『血』の実が無限でなかったら、わたしに背く人間は、罪を犯したのち、立ちあがることはできないにちがいない。
 「わたしの開かれた脇腹は、以上のことを示しているし、心の秘密をあかしている。そこで、あなたがたは、わたしが、有限な苦しみによって証した愛よりもはるかに大きな愛をもって、あなたがたを愛していることを認めることができる。わたしは、この愛が無限であることを、あなたがたに示した。なにによってであろうか。わたしの『仁愛』と一つになった『血』の洗礼によってである。なぜなら、『血』はこの愛によって流されたからである。キリスト者に与えられた一般的洗礼、望む者はだれでもさずかることができる洗礼は、血と火とに合一した水の洗礼である。そこで、霊魂はわたしの血と合一する。このことをあなたがたに示すために、開かれた脇腹から、血と水とが流れ出るのを望んだのである。
 「以上があなたの問いに対する答えである」。

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