< 戻る

目 次

進む >

9.涙の霊性

第93章

世俗的な人々の涙の実について。

 これから、望みによって流される涙の実について、そしてまた、それが霊魂にどのような影響をおよばすかについて、話さなければならない。
 最初に、はじめに挙げた五つの涙のうちの第一の涙 (6) 、すなわち、世俗でみじめな生活を送り、人と物と自分自身の官能とを神となし、その霊魂と肉体とに大きな害を与えている人々の涙について話したい。
 すでに話したように、涙はすべて心から発する。これは真実である。心は愛するからこそ苦しむのである。それゆえ、世俗的な人々は、その心が苦しむとき、すなわち、その愛するものを奪われるとき、涙を流す。しかし、その涙は多様である。どれほどであろうか。愛と同じように多様である。そのうえ、根がその官能的な自愛心によって腐敗させられているので、それから生まれるものはみな、腐敗している。
 それは、死の実、悪臭を放つ花、よごれた葉、あらゆる風に吹きまくられて地に這っている技しかもたない木である。これがかれらの霊魂の木である。わたしは愛によってあなたがたを造ったのであるから、あなたがたはみな愛の木である。それで、あなたがたは愛なくしては生きることができない。
 善徳によって生きる霊魂は、その木の根を謙遜の谷間におろす。しかし、みじめな生活を送る人々は、これを傲慢の山の上におろしている。この木はまちがって植えられているので、生命の実ではなく、死の実を生ずる。その業であるこの実は、さまざまの罪に毒されているときどき、なにかの善業をなすことがあっても、根がいたんでいるので、そこから出るものはみな、いたんでいる。大罪の状態にある霊魂は、永遠の生命にとって功徳のある善業を生むことができない。なぜなら、恩寵の状態でなされたものではないからである。
 しかしながら、だれも善業を断念してはならない。なぜなら、善はみな報いられ、悪はみな罰せられるからである。恩寵の外で実行された善は、永遠の生命を得るには不十分である。しかし、わたしの神的「いつくしみ」と正義とは、わたしにささげられた不完全な業にも、不完全な報いを与える。ときには、地上的な善によって報いるし、ときには、別のところでこの問題について説明したとおり、霊魂が自分を矯正するのに必要な時間を与える。またときには、わたしの気に入ったしもべたちに愛め でて、かれらの願いを容れ、この霊魂に恩寵の生命を通じ与える。わたしは、光栄ある使徒パウロに対して、このようになしたのであった。かれがキリスト教徒に対する不実と迫害とを放棄したのは、聖ステファノの祈りのおかげであった。これによってよくわかるように、霊魂は、どんな状態にあっても、決して善業を止めてはならない。
 さきに、この木の花は悪臭を放つと言ったが、これ以上真実なことはない。この花は心の有毒な思いであって、「わたし」にとっては侮辱であり、隣人にとっては憎むべきもの、不快なものである。世俗的な人々は、その「創造主」であるわたしの栄誉を盗み、これを自分のものにするのである。
 ところで、この花は、まちがった、みじめな裁きの悪臭、二重の裁きの悪臭を放つ。先ず第一に「わたし」を裁く。わたしのひそかな裁きを裁き、わたしのすべての秘義を裁く。しかも、邪悪なしかたで。わたしが愛によってなしたことを憎しみによると見なし、わたしが真理によってなしたことを虚偽と非難し、わたしが与えた生命を死と見なす。かれらは、その知性の目を盲目にし、その官能的な自愛心が至聖なる信仰のひとみのとばりとなっているので、真理を見ることも、認識することもできない。
 つぎに、隣人を裁きにかかる。その結果、しばしば多くの悪があふれ出る。このみじめな人々は、自分を知らない。それでいて、理性的被造物の心と情愛とを知っていると自負している。一つの行為を見、一つの言葉を聞くと、心の情愛を裁きたくなる。わたしのしもべたちは、いつも善い方に裁く。なぜなら、至高の「善」であるわたしの上に立っているからである。これに反し、俗的な人々は、いつも悪い方に裁く.なぜなら、みじめな悪の上に立っているからである。このような誤った裁きは、どれほどしばしば、隣人に対する憎しみ、殺害、嫉妬、わたしのしもべたちの善徳に対する反感を生むことであろうか。
 同じように、つぎつぎに葉が生ずる。すなわち、口から、わたしとわたしの「ひとり子」の血とを軽蔑し、隣人を傷つける言葉が生まれる。その気まぐれな判断にまかせてわたしの業をののしり、非難し、あらゆる理性的被造物を呪い悪口すること以外に、なんの配慮もない。なんと不幸な人々であろうか。かれらは、舌は、もっぱらわたしに栄誉をささげ、自分の過失を告白し、愛によって善徳と隣人の救いとに尽くすために、与えられていることを忘れている。みじめな過失によごれた葉はこのようなものである。それというのも、これを生ずる心が清浄ではなく、二心と他の無数のみじめさとによって、腐敗しているからである。恩寵の喪失によって霊魂に生ずる霊的被害のほかに、この間違った裁きによって、どれほどの地上的不幸が生まれることであろうか。運命の変動、市民間の憎悪、殺人、その他の悪がどれほど起きることであろうか。それも、言葉はこれを聞いた人の心の奥まではいり、短刀のとどかないところまで達するからである。
 ところで、この木は地に垂れさがった七つの技をもっている。この枝から、すでに話したように、花と葉が生まれる。この枝は、他の多くの罪を生む七つの大罪であって、自愛心と傲慢とからなる共通の根と幹とに結びついている。この根から、枝と多くの思いの花と言葉の葉と罪業の実とが生まれる。枝は地に垂れさがっている。大罪の枝は別の方向を向くことができない。地を這っている。すなわち、世俗のはかない、よこしまなものを追い求めている。貪欲に地をむさぼることしかめざさない。それでいて、決して満足することができない。自分自身に対しても満足することがなく、自分自身を我慢することができない。いつも不安を抱いている。それは当然である。さきに話したように、満足を与えることのできないものしか望まないし、欲しないからである。
 かれらが満足することができないのはどういうわけであろうか。朽ち去るものしか探さないからである。ところが、かれらの存在は無限である。かれらのなかにある恩寵は大罪によって死滅するけれども、かれらの存在は決して終わることがない。人間はすべての造られたものの上にある。造られたものが人間の上にあるのではない。それゆえ、人間は自分より偉大なもののなかでしか、満足することができないし、安心することができない。かれの上には、永遠の「神」であるわたし以外にはなにもない。したがって、わたしだけがかれを満足させることができるのである。ところが、かれはその犯した過失によってわたしから離れた。そのため、絶え間ない悩みと苦しみとを抱いている。苦しみは涙を誘う。ついで、逆風が吹き出す。そして、かれが全生活の唯一の原理にしている官能的な自愛心の木に吹きつけるのである。

< 戻る

目 次

進む >

ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ
inserted by FC2 system