2006.06.20

聖体拝領の歴史に関する神父様の信頼できない説教

一昨日、御聖体の祝日の御ミサにて。
御聖堂に入って、聖水をとって片膝をついて十字を切った。
次いで、御聖櫃を横切る時にも、片膝をついて十字を切って主に挨拶した。祭壇のそばに居る司祭と目が合った。(この司祭は御ミサ前に内陣でゆるしの秘跡を授けるので、居るのである。)
席についてから「聖書と典礼」や聖歌集を持ってくるのを忘れたことに気づき、立ち上がって、片膝ついて十字を切った。司祭は見ていたようだ。
また御聖櫃を横切る必要があるので、片膝ついて十字を切った。また司祭と目が合った。
そして席に戻る時も同じようにした。きっと司祭は見ていたに違いない。
すると、それとは関連はないのだろうけれど、御ミサの説教で司祭はこう始めた。
「今日は聖体の受け方についてお話したいと思います。」
以下、彼の説教。
先週の三位一体の日曜日と今日のキリスト様の聖体の祝日は、復活節が終わってしまっているのですけれども、復活節の余韻が残っている日曜日だと思います。それで、先週は、三位一体の神様に感謝をするために十字架のしるしをきちんとすることをお話しました。今日は聖体の受け方についてお話したいと思います。
御聖体拝領の時には、前に進み出て、左手を上にして、右手を下にして、「キリストのからだ」という言葉に「アーメン」と言って受け取って、右手で頂きます。左利きの人は右手で受けてもいいです。
それで、皆さんは洗礼を受けた時に、みんな神様の子供になると同時に教会の子供になるので、居候ではないんですから、モジモジしてこうやっている必要はないです。
そして、これはあまり話さない方がいいのかも知れないけれども、舌で受ける聖体、これも古い伝統的なやり方です。よくわかりませんけれども、百何十年か二百年か続いていた受け方ですので、許可されていますので、それは大威張りで受けていいと思います。けれども、これは教会で聖体の受け方が二つあるということではなくて、手で受けるというやり方が一つあるだけです。昔からの習慣で、舌で受けることも許されておりますけれども。
私は思い出しますが、私が叙階された時は丁度第二バチカン公会議が終わった頃で、その頃はまだ聖体拝領のための特別なベンチがあって、それに皆跪いて舌で受けてました。けれども教会憲章と典礼憲章が出たので、少しずつそういうことが変わっていきました。そして、その時の説明がね、私、面白いと思いました。というのは、もともと教会では、聖体を受ける時は手で受けていたようです。ちょうどこの「聖書と典礼」の挿絵にもありますように、真ん中にパンと葡萄酒を置いて、分かち合うのが聖体の受け方だったようです。それが何百年となく、千何百年も続いた後、だんだんと信徒が聖体を受ける習慣がなくなってしまったということです。私が思うには、おそらく神父様方の教え方が悪かったんだと思います。というのは、「聖体というものは神様のものだから、普通の凡人が受けちゃ駄目なんだ」という教え方をしたんだと思います。それで、教会の中には司祭の他には聖体を受ける人がなくなって、何百年も経ってしまいました。ですがある時、信者から「神父様達だけでなく私達もキリスト様のからだをもらえませんか」という声が出て、神父様方も「それはそうだなぁ」と思ったそうですが、しかしその時は信者に聖体を与えるといっても、どうやって与えていいのかわからなかったそうです。それで古い本を調べてみたら、病人に聖体を授ける時のお祈りとやり方が書いてある本があって──ラテン語で書いてあったそうです、神父様しかわからない本です──それを見たら、病人の舌に御聖体を授けていて、「ああ、これはいい」と思ったそうです。それで、そのやり方が何百年か続いたのかわかりませんけれども、何百年か前から、舌で受ける習慣ができて、舌で受け易いように跪き台を用意したということです。そういう歴史があるそうです。
ですから、どちらが長いかというと、もちろん手で受ける方が長い歴史があって、もっと早い時代からあったわけです。
ですからね、洗礼を受けたものは、大威張りで御聖体を受けたらいいと思います。何かね、罪があるからとか、告解を受けなければならないとか、考えないでいいと思います。そういうことよりも、神様の前で、聖体を分かち合うということが大事だと思います。
私は先日も山に行ったのですが・・〔ここでしばらく自然の話〕・・
ですからね、木でもね、芽を出して、新しい世代を作っていくというのは、非常に長い年数がかかります。何というか、神様の手順を踏んでね、変わっていきます。ですから私達も、教会の歴史の中に色々なことがあります。十字架のし方、聖体の受け方もね。
だって、いいでしょう? 教会にお祈りに来てね、讃美歌を歌って、口だけを動かすんでなく手も動かしてね。11時のミサには手話で祈っている人達がいますけれども、口でお祈りするだけでなく手でもお祈りした方が、もっと楽しいと思います。
そして私達はすべてにおいてね、十字架の切り方、聖体の受け方など、すべてにおいて、きちんと神様を讃えていきたいと思います。
彼は、以前私に、「今のゆるしの秘跡というのは『人間の長所を伸ばすように』ということです。告解室など、人を暗くさせるから駄目です。それは西洋の悪い習慣です。質料? 形相? いやいや、そういう昔教えられたものは忘れてもらった方がいいです」と言った神父様(主任ではなく協力司祭)です。(参照「質料も形相もない」)
後日の加筆
私は皆さんに、上の神父様の仰ることを鵜呑みにしないようにお勧めします。以下を参考にして下さい。
手による聖体拝領:「歴史的事実」には警戒しなければならない
手による聖体拝領に関する歴史的な考察
それから、上の神父様は「ミサ」と「楽しさ」ということを結び付けていますが、典礼秘跡省のアリンゼ枢機卿様は次のように仰っておられます。
人々はレクリエーションのためにミサに来るのではない。天主を崇拝するために、天主を讃美し天主に感謝するために、おのが罪の赦しを乞うために、そして他の霊的また現世的なニーズを天主に祈るために、来るのである。
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