2017.09.27

フランス革命下の殉教 2 カルメル会

コンピエーニュのカルメル会の
16人の修道女の殉教
1794年7月17日

Compiègne

私も不勉強な者で、つい最近知ったのですが、「コンピエーニュのカルメル会の16人の修道女たちの殉教」というものがあるのですね。知ったキッカケは、先日イエズス様の聖顔について調べている中で「セリーヌの画才」について書いてあったフランス語の記事を参照しましたが、その中に次のような表示があったことです。

Diocèse de Fréjus-Toulon

コンピエーニュのカルメル会の修道女たちの殉教を表わした御絵。〔リジューの〕聖テレーズの死後、彼女の聖務日課書の中に見つけられた。

Image sainte des martyres carmélites de Compiègne, trouvée dans le bréviaire de sainte Thérèse après sa mort.

上の御絵は即ち次の御絵です。

左端に一人の男が丈の高い木の枠のようなものをいじっているのが見えますが、それは断頭台(ギロチン*)です。

* ギロチンはフランス革命以前にもあったようですが、フランス革命に於ける処刑方法にギロチンを提案したのはジョゼフ・ギヨタンという医者にして且つフリーメイソンの中心的なメンバーだった人のようです。参照

日本では、彼女らの殉教に関する情報(文書情報)は極めて少ないようですね。(オペラ関係を除いて)

少ない中から、次を紹介しておきます。勝手に、しかし感謝して、一部を(半分くらい)転載させて頂きます。すみません <(__)>

フランスの香り
フランス語情報を和訳してお届けします

一七九四年七月十七日:
反革命カルメル会修道女十六名の殉教

 一七九四年七月十七日、パリ裁判所の《五月の中庭》に処刑場に向かう護送馬車が待機している。突如、澄んだ歌声が聞こえると、パリ高等法院付属監獄の扉が開いた。両手を背中で縛られ修道服を身に纏った短髪の女性たちが、聖母賛歌『サルヴェ・レジナ』を歌いながら姿を現した。

 通りに出ると、死に赴く修道女の歌に聴き惚れる群衆に黙って見送られる。彼女たちは、数カ月前に《反革命活動》、実際にはフランス救済を神に求める賛美歌を歌った咎で逮捕された、パリ北東コンピエーニュのカルメル会修道院の十六名の修道女だ。

 処刑場に向かう間、修道女は休みなく大声で祈り続ける。途中、何人かの通行人が目立たないように十字を切るのが見えた。一七九四年六月十四日以来、断頭台が設置されている玉座広場(現ナシオン広場)に到着する。白マントで覆われた修道女たちは、護送馬車から降りると誓願を繰返し修道院長の祝福を受けた。

 『神を求めよ』を歌い始めた彼女たちは、勇敢にも順番に処刑台に上っていく。修道女の歌を聞いた処刑見物の群衆は、声一つ出すことなく感動的な沈黙に包まれる。『神を求めよ』の歌は次第にか細くなり、最後に修道院長が殉教台に上った。殉教修道女の胴体と首は、夜の間にパリのピクプス墓地の共同墓穴に投げ込まれた。(…)

コンピエーニュの殉教について、或る神父様もお書きになっています。その中に次のような一節があります。

マニラのeそよ風  第250号(2004/09/21

(オペラでは、「ヴェニ・クレアトル」の代わりに「サルベ・レジナ」を歌うことになっているようですが、オペラでもブランシュが最後に歌う部分だけは、「ヴェニ・クレアトル」の最終節です。)

オペラではない、1960年に発表された映画では、彼女らは確かに「ヴェニ・クレアトル・スピリトゥス(Veni, creator spiritus  / 来たり給え、創造主にてまします聖霊よ)」を歌っています。

Le Dialogue des carmélites(1960年)

YouTube  / 映像の情報

清らかな歌声ですね。

歌詞

ちなみに、オペラの方のラストシーンは恐怖が勝った表現になっています参照参照。こうした方が確かに「劇的」になり(「センセーショナル」にさえなり)、観衆に与えるインパクトは大きくなるでしょうが、私はあまり良くないと思います。と云うのは、実際の彼女らに於いてはその時、信仰によって恐怖は既にほとんど乗り越えられていただろうからです。

混乱を避けるために

上で紹介した「フランスの香り」さんは「最後に修道院長が殉教台に上った」と書いています。

対して「マニラのeそよ風」さんは、私が引用しなかった部分で、先ず《映画の内容》として、殉教したのは「修道院長」と修道女たちである、「修道院長」は或る人に遮られて、結局、殉教を思い留まった、ということを書いています。そして、次いで《歴史的事実》について幾らか書いていますが、その中で「修道院長」の運命についてはっきり書いていないので、読者に「史実としても修道院長は殉教しなかった?」というような迷いを与えかねない恰好になっています。

そこで、ここで少しく整理させて頂けば、「修道院長は殉教しなかった」のは映画の中だけの話で、史実としては、彼女は他の修道女たちと一緒に殉教しています。それは彼女に関する Wikipedia を見れば明瞭です。彼女は他の修道女たちと同じ日に亡くなっています。彼女は殉教した「16人」の中の一人です。

私は、修道女たちに殉教を誓わせながら、いざ殉教の場になると修道女たちを遠くから見ていた修道院長映画の場面というのは(つまり、ル・フォールの原作は)ちょっと「非常識」だと思います。いかに「修道会の存続」のためであろうと、彼女の立場とすればそんなことはできないでしょう。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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