1977年6月29日
(聖ペトロと聖パウロの祝日)
(前半)
E = エクソシスト
B = ベルゼブブ
主は撤回はないと誓われた。「あなたは永遠の司祭、メルキセデクの位にひとしい。」(詩編 109:4)
主は彼と永久に続く契約をなさり、彼に民の司祭職をお与えになった。主は深い感銘を与える祭服で彼を飾り、栄光の衣を彼に着せられた。(集会の書 45:8-9)
叙階の秘跡
E: いと祝せられた乙女の聖名によりて、叙階の秘跡についてお前が言わなければならないことを言え!
B: この秘跡について我々がなお言わなければならないことは、この本の中に含まれなければならないだろう。
E: それでは、さあ、いと祝せられた三位一体の聖名によりて言え!
B: そうする為には、お前は『涙のロザリオ』を一環、『聖なる大天使聖ミカエル』を三回、そして『めでたし』を一回、聖ペトロと聖パウロおよび十二使徒の各々を称えて、唱える必要があろう。その後ではじめて、われわれはこの秘跡について語ることを余儀無くされるだろう……そしてそれが真理であらんがために、いと祝せられた乙女はお前達は祈ること、いと祝せられた乙女がお求めになるすべての祈りを唱えることを要求されるだろうと言われる。
〔求められた祈りが一緒に唱えられる〕
E: 汚れなき御宿りの聖名によりて、真理を告げよ!
叙階の秘跡を授ける為の新しい儀式
B: かの偉大な婦人は、現在行なわれているような司祭叙階をあまり好まれない。(天におられる)あの方々はこの新しい儀式を好まれない。この新しい叙階式は天主とその至高の権威を念頭に置いて、というよりは、人々のことをより多く念頭に置いて為されている。過去の儀式が用いられるべきである。そして強調点は、司祭は、永遠の唯一の大司祭にましますイエズス・キリストの霊に従えば、至高なる御方の司祭であるという事実に置かれなければならない。
現在はそうしないで、奉献においても儀式においても、人々の観点から、より多く為されている。そのことから生ずることは、聖寵が遥かに少ないということだ。それが、これらの司祭達が後になって善と悪についてあまり理解しなくなる理由だ。もし司祭叙階が、かつてのように執り行なわれていたならば、聖霊についてのもっと大きな理解が、正しいこととそうでないことの、もっと大きな理解があったであろう。そのことは叙階式のまさにその瞬間に始まるのだ。同じ種類のことが堅信式においても起こっている。
E: 聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、…の聖名によりて!
B: 司祭叙階は本来そうなければならない様に、正確にはもはや執り行なわれていない……だから、そこには聖寵の充満ももはやないのだ……それはもはや完全な叙階式ではない [75] 。教え、適切な仕方で聖なるミサを正しく捧げ、適切な仕方で秘跡を執り行ない、祝福し、奉献することは、司祭の特殊使命なのだ。
E: 祝せられた乙女の聖名によりて、真実を語れ!
叙階の秘跡の性格、あるいは、ぬぐえない印
B: 司祭叙階は非常に偉大な、非常に高い、普遍的な秘跡である。その前では我々この下にいる残りのもの(悪霊)は条件付降伏をしなければならない。この秘跡は同様にまた、魂にぬぐえない印を刻みつける。司祭がその義務をよく果たさず、悪い生活を送り、地獄の我々に加担しに来る時、我々は彼をいっそう多く苦しめることができる。
これは三つの秘跡、聖なる洗礼、聖なる堅信そして聖なる司祭叙階にあてはまる。これら三つの秘跡は魂に消すことのできない印を刻み付け、それは地獄においてさえ、けっして消し去ることはできないであろう。それが、これらの人間、これらのカトリック信者…ユダのような…がこれらの秘跡を一度も受けなかった人々よりも、地獄において、遥かに大きな苦しみを受ける理由である。
これら三つの秘跡は、ずば抜けて大きな秘跡であって、それを受ける人々に、人間が評価することができる以上に、遥かに高められた聖寵をもたらすのだ。この司祭、この司教がこれらの聖寵に相応しくない時、彼らはそれらの秘跡を一度も受けなかった場合よりも、もっと多くの苦しみを、もっとしつこい仕方で、受ける。それが、司祭になることを望む者が自分の良心を吟味し、自分が司祭職への召命を受けているかどうかを見る為に、自分自身に、良心を注意深く、そして真面目に吟味させなければならない理由である。
自分が司祭職に召されている、と考える多くの人々がいる。しかし、実際は彼らの召し出しは、平信徒としての他の身分への召し出しであったのだろう……〔ここでルシファーが邪魔して、憑かれた女性を激しく苦しめる〕
E: 至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、我々の為に十字架の上で御死去になられた、人となられた天主の御子、イエズスの聖名によりて、いと祝せられた乙女、汚れなき御心、そしてすべての天使と聖人の聖名によりて、我々が今日その祝日を祝っている聖なる使徒、聖ペトロと聖パウロの聖名によりて、今我々に真実を、ただ真実だけを告げ、いと祝せられた乙女が司祭叙階とそれに関係することについて我々に言おうとお望みになることを言え!
あらゆることにもかかわらず、
エコンは勝利するであろう[76]
B: ああ!……あの呪われたエコン……それは打ち勝つであろう! 我々はそれに反対することができるように、死にもの狂いで計画し、すべてのことを行なっている。しかし、エコンは唯一の真の司祭職を持っている [77] 。我々はそのことを認めなければならない。エコンはあらゆる反対、あらゆる攻撃にもかかわらず、打ち勝つであろう。それは打ち勝つだろう! もしエコンが真実で本物でなかったならば、我々はそれを攻撃する必要はなかったであろう。彼らがエコンで為していることは何であれ、絶えず連帯と対話についてばかり語っている他の者達には何の影響も及ぼさないだろう〔溜息をつき、苦しそうに息をする〕
なぜ彼らは彼(ルフェーブル大司教 [78] )を構わずにおかないのか? なぜ彼らはそのように彼を苦しめるのか? それはただ我々がそう望んでいるがゆえに起こっているのだ。我々が真理を欲しないからであり、公教会が再び活気づくのを恐れているからだ。我々は、公教会があるべき姿、上のあそこ〔上を指差す〕にいる彼らが望んでいるような姿に再び立ち返り、勝利を収め、再び息を吹き返すことを望まない。われわれはそのことを望まない。それが、我々がパウロ六世教皇に対して激怒していることに加えて、ルフェーブル大司教に対して猛烈に激怒している理由だ。我々の第二の憎しみはルフェーブル大司教に向けられている。しかし、結局この二人は打ち勝つだろう
E: いと祝せられた乙女は司祭叙階についてまだ何を我々に告げることを望んでおられるか? …の聖名によりて真実を、ただ真実だけを告げよ!
司祭の義務
B: 司祭は、教えなければならない。彼ら(司祭)はいまでも適切に教えているか? 司祭は適切に説教しているか? 司祭はいまでも子供達を適切に教育しているか? 大抵の場合、彼ら(司祭)はもうそうしていない。司祭は多くの事柄をゆがめている。そして真理を、それを教えるべき仕方ではもはや教えていない。彼らは子供達をもはや教育していない。彼らは徳や悪徳について、徳を実践する方法についてもはや説教しない。大多数の司祭が今日教え、説教すること……は逸話である。彼らはその議論の多くを彼らの『ミニ・シノドス』から引き出す。なぜなら、彼ら司祭はその現代主義において相互に支持し合い、その現代主義を人々に押しつけようとするからである。
人々はもう真理を望まない……司祭は最も楽な方向を取りたいのだ。それゆえ司祭は非常に安易な時間を過ごす。今日司祭は徳について、またキリストの模倣について話すのを聞くことを好まない。苦しみ、多くの苦しみ、十字架を担うこと……今日の人間はこれらの事柄について話すのを聞くことを好まない。彼は、あそこの上におられる方々〔上を指差す〕が人間にそうすることをお望みになるようには、キリストの十字架に従うことを選ぼうとはしないだろう。人間は自分の生き方について自分自身を喜ばせることの方を選ぶだろう。すべての司祭が、いまでも毎日聖なるミサを捧げているとは限らない。多くの司祭は、今や週にただ一度か二度だけしかミサを捧げない……そして人々は、もう誰もミサにはほとんど行かないから、そのことにかろうじて気がつくというわけだ。いろんな教会の中を見よ。司祭が現代主義の中に身を置くようになればなるほど、それだけ教会の中には人が少なくなるのだ。キリスト教的生活が消えて行くのはこのようなやり方においてなのだ。
E: …の聖名によりて!
ミサにおける尊敬の欠如による聖寵の喪失
B: 今、聖体奉挙の時に膝を屈めることが必要だともう信じてさえいない何人かの司祭がいる。しかし、例えば、司教が堅信を執り行なう為に、あるいは他の何かの機会にやって来ると、その時、突然彼らは膝を屈めるのだ。なぜなら、司祭は軍人のように真直ぐに立っていると、司教の前で悪い印象を生むだろうと信ずるからだ。これは、もしその司教自身が、ただ単に膝を屈めること以上のことをやっていた場合にはもっと悪い結果をもたらしたであろう。
それゆえ、我々(悪霊)は司祭達の耳にこう囁くのだ。「何か尊敬の身振りをやれ、跪け、さもなきゃお前はその司教によって、とがめられることになるのだぞ!」それが我々が彼らの耳に非常にうまく囁くことなので、その結果、司教は司祭達がその日常生活の中で事を正しく為していないということを気付くようになることが全然ないのだ。[79]
しかし、ただ人々だけ居て、司教あるいは高位聖職者が居ない場合には、司祭はあそこの上におられる御方の前で膝を屈めるほどに、その方の見ておられるところで、自らを小さい者とは考えない。彼らはあの御方〔上を指差す〕の前では単に立っている方がよい……それは重要なことではない、という感情をより多く持っているのだ。同じように、人々が教会の中で座席に坐ったままで、聖体奉挙に、ほとんど何の注意も払わず、祝福の間も歩哨のようにつっ立ったままでいる時、それはもう大したことではないのだ。それは重要なことではない。それはただ上のあそこ〔上を指差す〕の御方にしかすぎないのだ。
我々はまた言わなければならない…我々は以前にそう言わなければならなかったのだが……この『新しいやり方』は人々と司祭達にとって恐るべき、致命的な損失を意味する。多くの人々はこのことに気付いている。しかし、かなりの人々にとって、このやり方は結構なものである。なぜなら、ひとがほとんどミサの間じゅう、ずっと坐ったままでいることができる時、そして事柄があらゆる面でもっと安易に為される時、それはより容易だからである。もし人々が…以前のように…なおミサで跪くよう義務づけられていた…多くの場所では、人々はいまでも跪いているが…としたら、しかし、もし世界じゅう至る所で、彼らがいまだに跪き、あそこの上におられる御方に捧げるべき尊敬を示すことを義務づけられていたとしたら、もっと多くの聖寵と、啓示がそこにはあっただろう。もし彼らが跪くこと、非常に敬虔に祈ることに再び戻るならば、彼らは自分達の送っている生活が、余りにも安易で表面的である、ということに気付くようになるだろう。そのことは、司祭達についても、そして時には、司教達についてさえ、真である。
E: …の聖名によりて!真実を語れ!
原註
[75] 解説の注 [2] を見よ。
[76] これは、それゆえに、真のミサ、イエズスが最後の晩餐で御制定になったような、そしてイエズスが御自分の教会…それはその時勝利を得るであろう…の為にお望みになったような、聖なるミサの犠牲(いけにえ)の勝利の喜びであろう。
[77] その唯一の真正の現実性のゆえに、それが司祭職を構成するものの充全性を持っているという意味で、そうである。
[78] 「お前達の教会……正確に言えば現在の、現状における教会だが……これは聖なる、普遍的な(Catholic)、使徒的な教会ではない。それは偽善者、いやな偽善者の教会である……ルフェーブル大司教は多くの者にとって、司祭の義務を司祭に思い起こさせる恐ろしい手本である。彼らはこう考える──彼がそのように扱われるなら、私はどのように扱われるだろう……私は自分の仕事を失いたくない……また、とりわけ、自尊心を傷付けられたり、軽べつされたりしたくないし、また、世間を騒がせたくない──これが彼らが考えていることだ。」(一九七八年一月二十三日の祓魔式。ユダ・イスカリオテの告白)
[79] 我々の司教達がだまされる多くの場合の一つである。
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