1977年6月29日
(聖ペトロと聖パウロの祝日)
(後半)
E = エクソシスト
B = ベルゼブブ
よき牧者
B: 真の司祭は独身制を保持する。かの偉大な婦人は私に言わせられる。真の司祭は安易な生活と、最も抵抗の少ない方向に直面する時には、それに用心して近付かない。真の司祭はその全勢力を、余すところなく人々の為に費やす。彼は人々をキリストと……キリストの神秘体と同一視する。真の司祭は、キリストがお望みになっておられることを、キリストがお望みになるような仕方で、そして上のあそこ〔上を指差す〕におられる方々がお望みになるような仕方で、果たさないよりは、むしろ自分を殺させるであろう。
この頃では、司祭達は家庭訪問をする多くの時間をもっているであろう。以前は司祭達はどんな交通手段も持たなかった。そして司祭はよく司牧上の訪問に時間をかけたものである。司祭は、一つの魂を回心させることができると考えた場合には、何時間もかかる遠方まで訪問に出掛けるのを常とした。どんな犠牲も司祭には大き過ぎるとは思えなかった。今日では……町にちょっと立寄ってみよ……人々はいまでも訪問を受けているか? 司祭達のうちの非常に僅かの者が、いまなおそうしている。しかし、魂の救いへの愛によってそうしているのではない。
多くの人々は訪問を受けないことをこぼしている。司祭達が交通手段を多く持てば持つほど、そしてそれが容易になればなるほど、それだけ司祭達が人々に会う為に出掛けることが少なくなる。このことは司祭達が聖寵を僅かしか持たないから、そして彼らが少ししか祈らないから……彼らが聖務日祷をもう唱えないから……彼らが適切な仕方で叙賭されていないから、彼らがもはや真のキリストの司祭職、真のキリストの模範を生きていないから起こることである。真の司祭職は、天主の聖名によりて、十字架、苦しみと犠牲を説教するものである。
真の牧者は自分の羊の各々の為に、自分の血を流す準備ができている。真の牧者は…もし羊が見失われたり、イバラに絡まれたりしたら、犠牲と自己否定を通して、自分の羊の中のいちばん小さいものを捜しに出掛ける。キリストはよき牧者の譬の中でこうおっしゃった。よき牧者は自分の失われた羊を見付けるまで捜す、よき牧者は見付けた羊を肩に担ぎ、その時天は喜ぶ、と。キリストはそのことを根拠なしに言われたのではない。キリストはそれを主として、司祭達と司教達の為に、聖職者の為に言っておられたのである……
これは変わることのない教えである。その教えは非常に真剣に受け止めなけれはならないのであって、もしそうされなかったら、その時キリストの模倣は、もはや存在しないのである。あそこの上におられる方々は、自分達の羊を喜んで捜しに出掛けようとしない、そしてたまたま自分の頭に浮かんだことしかしない司祭達を喜ばれない。
E: 至聖三位の聖名によりて、話せ!
アルスの聖なる主任司祭
B: 教区司祭、アルスの聖ヴィアンネが、いつもそうしていたように犠牲をすることが必要である。彼は自分の牧している群れの中に、天主の意志に全然従わずに生活している、ある羊がいるのを知ると、いつも一晩じゅう祈ったものだ。彼はすべてのものを与え、すべてのものを犠牲するのを常とした。彼は適当なベッドで眠ることさえしなかった。しばしば彼は、……ある時はたった一つの魂を救う為に、何時間も聖櫃の前で祈ったものだ。
彼はあそこの下の(と下の方を指す)我々の残りの者から、しばしばたった一つの魂のゆえに、恐ろしい攻撃を受けた……そしてそれは彼が全然聡明でなく、神学とラテン語に弱かった時にそうだった。今日の司祭達は「我々は聡明である、我々は博士だ、我々はすべてをもっとよく知っている」と思いあがっている。
しかし、要するにこれらは上のあそこ〔上を指差す〕におられる方々が関心を持っておられる事柄ではない。あの方々はある者が賢いかどうか、あるいは彼が頭の中に持っているもの、彼が哲学そして数学に関して知っていることについては関心を示されない。他のすべてに先んじて、あの方々は、次のことを考慮される。彼は真の牧者であるか? 彼は自分の羊を捜しにでかけるか? 彼はおのれの生命と彼が自分の羊の為に持っているすべてのものを投げ出す用意ができているか? それが上のあそこ〔上を指差す〕におられる方々が見ておられることである。そして今日の大きな悪は、この時代の司祭達が、これらのことをもう為さないということである。
再びアルスの主任司祭について、そしてカタリナ・エンメリックについて説教されるべきである。彼女はその苦しみの床で、公教会の為に苦しみ、そして祈る以外には何もしなかった。他の多くの聖人もまたそうした。パードレ・ピオは公教会と罪人達の為に沢山苦しんだ。説教壇の高みから、博士号を得るよりは、むしろキリストに倣うことに時間を使う方がよりよいであろうということが述べられるべきである。
博士号を持っている人も何人かはいなければならないことは間違いない。しかし、大部分の者にとっては、もし彼らが哲学あるいは数学あるいは神学等々を研究しなかったならば、その方が良かったであろう。多くの者にとって、彼らの過ごす夜の半分を、祈りと聖霊への祈願に費やすことの方がよりよい。例えば、祝せられた乙女、その汚れなさ御心そしてイエズスの聖心に完全に信頼を捧げて、真のキリストの模倣と聖グリニョン・ド・モンフォールのマリアの教えを生きること、十字架を見詰め、あそこの上におられる方々がお望みになっていること(上の方を指す)を正確に為すことの方がもっとよいであろう。そのことは世間の前で単によい印象を与える為に、何時間も苦労して勉強するよりも、よいであろう。…なんと私はそれを強制的に言わせられたことか!(と大声を出す)なんと私はそれを強制的に言わせられたことか!
E: …の聖名によりて!真実を語れ!
B: 例えば、ロシア革命の父・レーニンは、革命の為には夜全部と彼のすべての時間を放棄する必要があると言った……しかし、多くの司祭は未信者がしていることすらしない。レーニンは革命を成功させる為に何を為さなければならないかを知っていた。彼はその為にあらゆることを断念した……しかし、あの御方、かの偉大な婦人が私に言わせられるのだが、今日の司祭達は人々の為に、自らを完全に犠牲にし、彼らが持っているすベてのものを犠牲にする準備は、もはやできていない。
司祭達がこのこと…すなわち、ある人が自分自身を犠牲にすることが多ければ多いほど、我々はそれだけ多く彼らに反対して戦う、ということを考慮しなければならないことは確かである。それが司祭ヴィアンネーに対して戦いが為された仕方であった。われわれは彼の部屋の中で火事を起こした。しかし、そのことは重要なことではない。あそこの上におられる方々が私に言わせられるのだ〔上を指差す〕。あらゆることにもかかわらず、あそこの上におられる方々、そしてかの偉大な婦人は勝利なさるであろう……そしてなお真の司祭職を実践する司祭達は、比類のない勝利を獲得するであろう。
どんな博士号もどんな他の称号も、いまなお魂について、そして人々について真の理解を有している、そして彼らをそれぞれの人に相応しい場所におくやり方を知っている司祭達によって為される善とは、比較され得ないものである。そういう司祭達は自問する。「これらの人々を救う為に私は他に何を為すことができるだろうか? 説教する最善の方法は何であろうか? 信者を秘跡の実践へと立ち戻らせる為に、私は何を為さなければならないだろうか?」もちろん、同時に司祭達にとっては、秘跡を正しい仕方で、そして古来の儀式に従って執り行なうことが必要である。そうすれば天の祝福が司祭達に与えられるであろう。司祭達はもしそうしないならば、ある程度までは落伍しなけれはならない。
天国は苦しんで得られなければならない。キリストは真の司祭職を最も完全な、最も純粋な、最も比類のない仕方で遂行された。そしてキリストの使徒達もそうされた。使徒達は自分達が牢獄に入れらても、あるいは殉教させられても、心配しなかった。彼らは何の恐れも持たなかった。他方において、我々の司祭達は、それは真理ではなく、そしてそれはあそこの上におられる方々〔上を指差す〕が御覧になる仕方に従えば、もはや従順ではないけれども、多くの司教達が言うことを正確に為さないならば、自分達の地位を失うということを恐れているのだ。なぜなら、我々は、今命令が正しくない場合には、もはや従うことはできない、と既に言わなければならなかったからだ……ああ! 我々がこんな仕方で話すことを強制されてきたということは気違いじみている!
E: 人間に従うよりも神に従うほうがよいと言われ得るか。聖名によりて…!
B: 神は人間より優先して従わなければならない。使徒達は人間を、ローマ人達あるいは他の誰かを尊重したかね? 彼らは勇気を持っていた。彼らはキリストの為に牢獄へ入り、殉教のためにおのれを捧げた……
だから、今日のキリスト教徒の間では、堅信の秘跡、自分達の額に持っているキリストの兵士の印はどこにあるのか? カトリック信者はまだこの印を帯びている。……そして司祭達は、その上、彼らの司祭叙階の印を持っている。…また、彼らは自分達を助けてくれる天使達を持っているであろう。なぜ、天の愛の為に、司祭達は聖なる天使達に祈らないのか? 司祭達はなぜ彼らの保護の聖人達、聖ペトロと聖パウロ、すべての使徒達と教父達に依り頼まないのか? それらの方々は、ただ請い求められさえすれば、どんなことでも司祭達に教えてくださる、あるいはどのように彼らを鼓舞してくださることができることであろうか! そして、他の何にもまして、聖霊はそうお出来になる。
使徒達はどんなことにも恐れをもたなかった。そして、彼らにとっては何ものも高すぎる代価ではなかった。使徒達はいつも秘跡を正しく執り行なった。そしてかれらは秘跡に対する大いなる尊敬を持っていた。それがお前達が見るべきところ、最初の使徒達の方をであって……後に来た者達、今の時代の司祭の方、使徒達の例に倣って全然生活せず、行為しない者達の方を模範にしてはならない。お前達は平凡な者、消極的な者の方を見てはならないのであって、上の方、最善の者そして最善の者によって為されたことの方を見なければならない。もしお前達がこうするならば、こう言うことはできない。すなわち、「昔の人達は、よく行なった。……そして、現代のやり方もよい」と言うことはできない。これは途方もない誤りである。
ああ! 我々がこのアルスの司祭をどんなに憎んだことか! 我々は彼に対して恐ろしく激怒していたのだ! 彼は非常に愚かだった [80] 。彼はラテン語を正確に知らなかった。いったい彼はどうやってそんなにも沢山の人々を... 彼なしには恐らく地獄へ来ていたであろう人々を... 我々のところからひっさらって行くことができたのか?
ああ! あの御婦人が私に言わせられる。「このキュレ(教区司祭)ヴィアンネーのような司祭達がもっと多くいてくれたならば!」重要なのは金でも、財産でも、知性でもない。重要なのは司祭達が何を為すか、彼らの魂の状態がどんなであるか、そして彼らが神の意志を遂行するやり方である。たとえ司祭達が世間の目から見れば人々のうちで最もつまらない者であり、なんら重要であるようには見えず、また最低の地位しか占めていないと思われるとしても、先に述べたそのことが重要なことである。これらの司祭達は、司教のミトラを着ている、あるいは枢機卿の帽子を被っている者連、あるいはお前達の好む他の何かよりも、上のあそこ〔上を指差す〕におられる方々の目にはずっと偉大なのである。ああ! 我々がそれを言うことをなんと強制されてきたことか!
司牧の仕事の重大な責任
B: この主題に関しては我々は再び次のように言わなければならない。すなわち、多くの司教や枢機卿にとって、彼らがその責任をまずい仕方で果たし、それを平凡なやり方で果たすよりはむしろ、平信徒の最も地位の低い人としてとどまり、そのような高い地位を決して占めなかった方が余程よかったであろう。彼らは恐ろしい責任を持っている。彼らが地獄へやって来る際には、我々は彼らをずっと多く苦しめることができる。彼らのうちの多数の者にとっては、平信徒としてとどまった方がよかったであろう。なぜなら、高い地位はまた重大な責任でもあるからだ。多くの者にとって、彼らがアルスの主任司祭のように一晩じゅう祈り、また断食をしないなら、あるいは彼らが常に上のあそこ〔上を指差す〕におられる方々がお望みになることのみを行なうのでないならば、その方がよかったであろう。
もし司教や枢機卿が……巡礼地を愚かにも禁止する前に、あるいはただ単に彼らの司教代理の、あるいは誰も知らない他の誰かの忠告の通りに行為する前に、彼らが何を為すべきかについて、知恵と啓示を得る為に聖寵に祈っていたらよかっただろうに! 司教や枢機卿達は、たとえそれが彼らを人気のない者にするとしても、聖霊から来るのでない、彼らの部下のすべての観点や考えに反対して、彼ら自身の観点や考えを押付けなければならない。「済まないが、私は私の魂と私の良心に従って行為しなければならない」と言って、それらの(部下達)を追放し、比類のない勇気を持っていた聖なる使徒達・聖ペトロと聖パウロのように、勇気を示すことの方が遥かによかったであろう。
そしてキリストは…どんなに勇気をお持ちだったことか! キリストは迫害され給うた。キリストはその十字架上の死の直前まで、ユダヤ教のファリサイ派の攻撃を受けられ、悩まされ給うた。キリストはそのすべてのことゆえに引き下がられただろうか? キリストはこう言われただろうか?「もし彼らが私のこのやり方を攻撃するならば、私は私のミッションを断念しよう。十字架にかけられるままにしておくのは愚かなことだ。人々はそれ以後はもう私に耳を傾けないであろう」と? キリストはどれだけ多くの人々が御自分に従わないかを予見することがおできになった。それはキリストの勇気を完全にくじくに充分であったであろう。
確かにキリストは神であった。しかし、オリーブの園ではキリストは一人の人間にすぎなかった [81] 。キリストの神性は、ある種の仕方で、キリストから取り去られていた。キリストはその人間性を、そのすべての弱さとそのすべての孤独において、耐えなければならなかった。それにもかかわらず、キリストは最後までしっかりと踏みとどまられた。そしてキリストの使徒達がキリストを模倣したのはこのやり方においてであった。使徒達は、「もし我々がこのように攻撃されるなら…我々はそのことを予期していなかった…もうしっかり立っていることはできないであろう」と言っただろうか? 使徒達はそうは言わなかった。彼らは最後までしっかりと踏みとどまった。キリストは模倣されんが為に十字架上でその御血を最後の一滴まで与え給うた。そしてこの模倣は、特に司祭にとっては不可欠のものである。
かの偉大な婦人が私に言わせられる。司教達、枢機卿達、司祭達よ、お前達はどこへ行くのか? お前達の現代主義はお前達をどこへ導いて行くのか?
E: 至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊の聖名によりて、…の聖名によりて!
司祭の見本が人々を邪道に導く
ネロ皇帝の下での、初期のキリスト教徒の間では、多くの者が自分の血を流してまで、苦しみを受けることをいとわなかった。彼らは死を恐れないほどまで、キリストに従った。しかし今日の人々は、もはや本来あるべき者ではなくなり、最も抵抗の少ない方向を選んでいる司祭達の悪い見本を見ている。
しかし、もし信者が、その羊の為にすべてのことを為すその望みにおいて、あらゆる犠牲に対して準備ができている司祭達、汝等にとって何ものも多過ぎない、どんな犠牲も大き過ぎず、あるいは難し過ぎない、どんな祈りも多過ぎない、そのような司祭達を見ているならば、その司祭達は大いに尊ばれ、敬われるであろう。悪はます真先に聖職者のうちにある。
もし彼ら(信者)がもう一度彼ら(聖職者)を頼りにすることができたならば、もし信者がもう一度適切な説教を聴いたならば、もし秘跡がもう一度それに払われるべきあらゆる尊敬の念をもって執り行なわれたならば、もし彼ら(司祭達)がそのような尊敬を持ったならば、平信徒がキリストへ向かう道をもっと容易に見出すであろう、そのような聖寵を(司祭達は受けたであろう)。そして、十字架の道に従うこと、深淵へと導く滑りやすくて広い道に沿って歩かないように、あらゆる努力をすることが必要であることが分るであろう。無数の霊魂は、そのとき天へと導く狭い道へ戻って来るであろう。
我々は既に、独身制に関連して、天国が如何に犠牲と自己否定を通して獲得されなければならないか、そしてそれは獲得され得るということを以前に述べなければならなかった。天国は車、テレビ、衣食住、不品行、ぜいたくな生活をとおして獲得されることはできない。天国は自己否定、断食、十字架、キリストの模倣を要求する……我々はもう話したくない! 我々はこれらの事柄をどんなに強制的に言わせられてきたことか!
例えば、聖ジャン・マリ・ヴィアンネーは食ベることにまったく注意を払わなかった。これが彼・ヴィアンネーがその羊の為にいつも聖寵を受けていた理由である。なぜなら、彼は厳格に断食し、祈るのを常としていたからである。彼は馬鈴薯が苦いことにほとんど気付かなかった。彼はいつもあるものを食べた。空腹である時にそれに気付かないことさえあった。もちろん、司祭というものにとって、まったく食べることをやめてしまうことは理に適ったことではないであろう。司祭にとって食べることは絶対に必要である。しかし、司祭は一方の極端から他方の極端へ行き、ぜいたくな生活と、大食によってだらしない道へと入って行ってはならない。
ところが一方、この主題に関して我々はいま言わなければならない。(と苦しげな声でどなる)お前達司祭よ、お前達司教よ、お前達枢機卿よ、もう一度、徳について説教せよ! 十字架の道に従え! 無原罪の御心に避難せよ! 聖なる天使達に祈願せよ! 特にその御力を持ち給う聖霊に祈願せよ! 福音をその最も真正なる精神において、…徳について、十字架についての説教…説教せよ!
E: 祝せられた乙女の聖名によりて……真実を語れ!
天主の正義の怒りの日
B: 何としても! お前達司祭よ、十字架の道に従うために戻って来い、……お前達はその羊の群れを正しい道に、もはや導いていないことを最後には認めよ。かの偉大なる婦人が私に言わせられる。枢機卿達、司教達、司祭達、平信徒は遂に時が打ったことを認めよ! いま正午過ぎ五分あるいは十分である…かの偉大な婦人が私に大きな声を上げさせられるのは正午過ぎである。[82]
あの御方は私に言わせられる。徳と十字架の道に最後には従い、お前がどこに行かなければならないか、お前の場所がどこにあるかをもう一度見よ。なぜなら、お前は、もはやそれを知らないからである。罪の償いを為し、…できれは日夜…祈り、回心せよ。償いを為し、回心せよ……なぜなら……その日はまさに来ようとしているからだ(と恐ろしい声でどなる)……天主の正義の怒りの日、もしお前が自分の羊の群れを如何に導くべきかを見ようとしないならば、お前を押し潰されるであろう、あそこの上におられる御方の正義の怒りの日が、まさに来ようとしている!
お前達、平信徒よ、自分達がどんな道をたどっているかを、もはや見ないお前達の司祭達の為に、同様にまた祈り、償いをせよ! お前達のすべての力と強さを注いで、このことを始めよ! さもなければ、失われる無数の霊魂はこれ以上多くなるであよう!
司教達、司祭達そして平信徒よ、十字架の道に従え! 見よ、時が真夜中を打ってからもう随分になる。これは最後の警告の一つ、人々が回心し、そしてよく見るようになる為に、なお与えられるであろう他界からの警告の一つである。
お前達がどのような道の上にいるのか知っていたならば! もしお前達がどんな時が打ったのか、そしてあそこの下の地獄ではそれがどのようであるかを知っていたならば、お前達は自分達を十字架にかけたであろう。お前達は地獄落ちを宣告されないようにと、あの恐ろしい煉獄を、ただ数年だけによって短くすることができるように、自分達を殉教者と見なし、罪の償いをしたであろうに。
それがあの御方、かの偉大な婦人が私に言わせられることであり、そしてそれが上のあそこ〔上を指差す〕におられる御方が私に繰り返し繰り返し言わせられることである。
この本、それの第二部にとって、これはいまや最後の声明である。償い、祈りをせよ、そして自分自身を変えよ。なぜなら……もしお前が戻って来ないならば、天主の怒りがお前を押し潰すだろうから(溜息をつく)……
かの偉大な婦人は苦い涙を流して泣いておられる。なぜなら、その御方は如何に多くの彼女の子供達、如何に多くの司祭、司教、枢機卿達が盲目であり、はっきりと見ていないかを御覧になっているからである。
あの御方が言われ、そして私に言わせられる。何としても最後に警告、他界からの最後の警告を聞け。そしてあの御方がお望みになることを行なえ。聖寵を天主に乞い求めよ。遅くなり過ぎて、天主の怒りが押し潰す為にあなたの上にくだる前に、……あの御方が来られる……そしてあの御方が彼女の息子の腕をおろさせるように余儀無くされる前に戻って来なさい!と。
我々は語った。我々はもう語った……これが最後である。我々は最後の言葉を言った……この本の第二部の為に……我々はこれらの事柄を言うことを、かの偉大な婦人の命令によってどんなに強制されてきたことか!(と悲痛な仕方で怒鳴る)
原註
[80] アルスの主任司祭の聖性がその悪霊からひっさらってきた無数の魂に対して、出来る限り沢山の復讐をしようとしているこの悪霊「ベルゼブブ」の意見によれば……ベルゼブブはたったいま「どんな博士号も、他のどんな称号も、なお魂の真の理解を持つ司祭達によって、為された善には比較され得ない」ことを認めなかっただろうか?
[81] 第一部、[注1] を見よ。
[82] 「いま正午五分前である」…このようにミッシェル・セルヴァンは一九七二年に……その書物に副題をつけた。「いま正午五分過ぎです」と祝せられた乙女は一九七七年にお告げになっている。これは杯があふれていること、懲罰の時がすでに来たこと、そして無限の御憐れみからの最終的な懲罰の執行の延期が、奇跡のように天主の御怒りを押えている唯一の事柄であることを意味している。
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