1977年6月18日(続き)
E = エクソシスト
B = ベルゼブブ
聖体拝領の為の断食
E: 祝せられた乙女の聖名によりて、真実を語れ!
B: ここには現在そうであるやり方がある。諸々の秘跡は全然変えられるべきではなかったのだ。このことは一部はフリーメーソンの陰謀によってもたらされた [83] 。他方においては、例えば聖体拝領については、教皇は、それはむしろ厳格な法である、それは人々に一晩中断食したままでいることる義務づけるものである、とたまたま言ったことがある。特に布教地においては、人々は正午まで、あるいは夕方までさえ、断食したままでいることを義務づけられることができた。そしてこれはしばしば難しかった。
しかし、それはまた非常に価値のある利益でもあった。何故なら、人々は償いをすること、無数の霊魂を救う一般的効果を持っていた非常に大きな犠牲を為すことを義務づけられたからである。これらの犠牲や試練を通して、非常に多くの霊魂が我々(悪魔)から奪い去られるのが常であった。これが、天国が聖体拝領の為の断食の法が変えられないことの方を好まれる理由である。誰かが…教皇か枢機卿達か、それが誰であるかはどうでもよい…もうここに至っては、それはもはや止めることができない、彼らに合わせる為に一歩が踏み出されるベきだ、と言った [84] 。そこで、法は最初は(食事するのは聖体拝領前)三時間に、次には一時間に縮められた。
完全な断食の法。(聖体拝領)前には、ミルクあるいはそれに似たものを摂ることは出来なかった。……水分でさえ許されなかった。それは罪の償いであった。しかし、天国はそれを推奨した。天国はそれを、現在の在り方よりも好んだ。〔しかし〕枢機卿達は、そしてまたある程度までは教皇も、法がこの点で軽くされたならば、大勢の人々が聖体拝領台に群がるだろうと考えた。最初は、今までより幾分多くの人々が聖体拝領に行くことができるという効果をもたらした。しかしながら今は、状況は聖体拝領の為の断食の法が変えられる以前よりもずっと深刻になっている。今は聖体拝領に、聖体拝領台に来る人々はもっと少なくなっている。…とにかく、〔これ故に〕公会議がその法を変える以前に来ていた人々と比べて、成聖の状態にある人々は少なくなっている [85] 。今や、その状態は悲しむべきものになってしまっている。そしてこの事は、上のあそこの人々〔上を指差す〕を全く喜ばせない一つの事柄となっている。
もしもその法がまだ存在していたならば、聖体拝領に行く人々の中に、非常に敬虔で成聖の状態にある人々がもっと多かったであろう。何故なら、彼らは断食することを、そしてそれを通してより多くの犠牲をすることを義務づけられただろうからである。しかし、もし彼らがただ三時間だけの、あるいは更にただ一時間だけの断食しか義務づけられないならば、それはもう犠牲とは言えない。
おおざっぱに言えば、聖体拝領の為の断食のこの法の主題に関しては、多くの人々はこう自問する。「もし教皇様が法を変え、断食をまる一日から三時間に、そしてそれから一時間に縮めることができたのならば、我々は聖体拝領に行く前に、…まぁ十五分前かそこらに、何かを十分に食べることができる。そんなことはもう重要なことではないのだ。今やあらゆることがもっと容易である。何をしようと、もう重要ではないのだ」と。
同じことは堕胎についても言える。そして今やあらゆることについて同じである。以前は…教皇もこれについて考えるにおいて上首尾だった…聖体拝領の為の断食が存在した時には、物事は現在よりも遥かに上首尾に進んでいた。と云うのは、もう犠牲が存在しない時、もう自己否定が存在しない時、そこには天国の祝福も聖寵も遥かに少なくしか存在しないからである。そして人々は、物事がまるで回転木戸を通り抜けるような〔容易な〕時には、それについてほとんど全く考えないものである。
以前は常に考える必要があった。「私は食べてはならない。今日、どなたが私の心の中へ入って来られるのか? 至高なる御方、至聖なる御方である。その偉大さと威厳には、如何なる人間も到達するすべを知らないのである」と。これが人々が常に考えてきたことであり、そして常に前もって、時には夜を徹して祈ってきたことである。今も多くの人々がそうしている。しかし以前のようには多くはない。あらゆる観点からして、(聖体拝領において)この緩み(relaxation)が起こる前は、もっと多くの天主の祝福があったものである。同じことが告解についても言える。
初代教会における手による聖体拝領 [86]
E: …の聖名によりて! 教会の最も初期の時代の、手による聖体拝領についての話とは何か?
B: キリストは…我々はその時、このことを我々自身の目で見た…パンを裂いた時、彼はそれを使徒達の手の中には与えなかった。我々はもうこれ以上話したくない! もうこれ以上嫌だ!
E: …の聖名によりて!
B: 我々は言いたくない! 特にそのことは言いたくない!
E: いと祝せられた乙女の聖名によりて!
B: キリストが最後の晩餐で「これは私の身体である」と言った時、キリストはパンを直接、使徒達の口の中に入れた [87] 。尊い御血については何の問題もない。使徒達は御血を飲んだ。しかし初めに彼らの手の中に御血を持ったわけではない。
最後の晩餐に列席した使徒達は、決して他の仕方で行動したのではない。彼らは聖体を口の中に与えた。…キリストは、彼が去った後に聖体が手で受けられるようになることを望まなかった。…もし彼が去った後に彼らが聖体を手で受けたとすれば、それは彼らが間違った理解を持ったからだ。…キリストはそれを決して望まなかった。キリスト自身、それを口の中に与えた。そして祝せられた乙女でさえ、この秘跡を他のどのような仕方でも決して受けなかった。そして、彼女は常に跪いて、非常に深く頭を垂れていた。…ああ! 我々はこのことを言いたくない!
我々は、彼女〔上を指差す〕が聖体拝領する時はいつも、彼女に対して猛烈に激怒していた。彼女は最後の晩餐で起こった全ての事を見、そして神秘的な仕方でそれを経験した。彼女ほとんど常にあらゆることを知っていた。彼女は公教会を導くべく運命づけられていた。使徒達もそれに運命づけられていた。しかし彼女は、非常に大きな度合にまで、使徒達と共に働らかなければならなかった。
我々はこのことを以前に言わなければならなかった。彼女は、キリストの教会においてあらゆることがうまく行くようにと、使徒達の為に祈りながら、日夜跪いていた [88] 。使徒達、最後の晩餐に与った使徒達は、聖体を口の中へ与える以外の仕方はしなかった。もしそれが後になって違ったふうになったとしても、それは使徒達の過失ではなかった。いわんやイエズスとその母にも何ら責任はない。彼ら〔上を指差す〕はそのようなことを計画も望みもしなかった。それは絶対に彼らの意図したことではなかった。
E: 誰が手による聖体拝領を導入することを望んだのか?
B: お前はその質問をしてはならない!
E: 聖父と…の聖名によりて!
B:「手での拝領」のことを計画し企んだのは我々だ [89] 。我々はこう独りごちた。もし我々が初期のキリスト教徒達の間に手による聖体拝領をなんとか導入することができれば、後になってキリスト教徒は「手による聖体拝領は最初のキリスト教徒の時代にもあった」と言うことができるだろう、と。そしてそのようにして、今回の公会議、今日のこれらの人々は「最初のキリスト教徒達は手で聖体拝領していた。それゆえ、そこにはなんら間違ったことはない。彼らは最初のキリスト教徒達であり、それはキリストが生きておられた時代であった。彼らはキリストに近かった。それゆえ、手による聖体拝領は絶対に罪ではあり得ない」と言うことができるだろう、と。
確かに、彼らはそれが天主によって望まれたことではないということを知らなかった。正にその時、既にその時、我々はこう独りごちたのだった、もし我々がそのことを起こさせることができたならば、その結果として、ある種の生温さ(lukewarmness)がもたらされるだろうと。しかし、口ヘの聖体拝領が回復された。ある聖なる人々と教会の非常に偉大な博士達は、それがどこへ導いて行くかを、その方がより良いだろうことを、もし上のあそこにいる〔上を指差す〕彼が口に受けられたならば…人々が簡単に彼らの手に、その汚い手に…長過ぎる爪あるいはマニキュアを塗った爪を持った手に、あるいはうっちゃらかしの手に、彼を受けることができなければ…そこにはずっと多くの尊敬の念があるだろうことを、はっきりと見ていた。我々はそれを全部言うことはできない。どこかへ出かけた時に一日じゅう手を洗わなかった人々もしばしばいる。…私はそのことを言いたくない!…それはひどい不敬だ。
神をそれほど信じない多くの者がいる。彼らは至る所に象徴を見る。彼らは少しばかりプロテスタントに似ている。最初、公会議はそのようではなかった。しかし後に、公会議はプロテスタントと他の者達の方へ歩み寄らなければならない、と決定された。それは連帯であった。それは善であった。それはキリスト教的愛であった。そしてそのようにして、部分的にはフリーメーソンの助けによって、我々は次のように言われる地点にまで到達することができたのである。「愛徳的であること、融和的であること、隣人への愛を実践すること、お互いに対話を持つこと [90] が必要である」と。…遂に、あらゆるものが柔弱にされ、少しは変えられ得るところにまで到達した。…そして物事は、それらがその価値とその意味を失うような仕方で再編成(rearrange)された。そのように、人というものが群れに従うが故に、大切な聖寵が失われる、ということが起こり得るのである。
原註
[85] 断食の為の条件は以前は、聖体拝領に先立つ晩の真夜中から完全に断食することであった。最近数年の間に、聖座は、飲物に関するいくつかの例外を伴う、聖体拝領前のこの時間的猶予を一時間に縮めた。
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