第6

我が主[おも]なる情慾、即ち己れ及び被造物を愛する情慾を抜き去り、これを犠牲に供すれば、間もなく心の全体が秩序と義務とに服するに至る

 意志を支配する邪慾を容易に、または順序を追って脱するには、先ず全力を込めて、我が重[おも]なる情慾を制し、且つ治むるように努めねばならぬ。この情慾は取りも直さず、己れを愛し被造物を愛すると云う事である。一旦この情慾を押うるに至らば、これと共に、これによって出でて活動する所の他の邪慾は消失するであろう。この道理をいささかでも熟考すれば、そのもっともなる事を覚る。何故なれば、何事かを愛して、これを楽しみにすればするほど、必ずこれを欲するが、これに反して、愛する所に反対すればするほど、これを憎み、これを忌み、これを悲しむに至る。また、愛するものにあらざれば、これを希望する事なし。

 なおまた愛する所を求むるに、妨ぐるものがあって、全く打ち勝ち難いと思えば、失望に陥る。その愛する所を妨ぐるものがあって、あるいは恐れ、あるいは大胆、あるいは軽蔑が起るのである。

 然るに我が主[おも]なる情慾に勝ち、これを治むる方法は、先ず愛するものに於て、如何なる特質があって、心を誘引し、愛着せしむるかを見て、即ちこの愛、この愛着の目的は何物たるかを認むることである。

 もし意志を引くものが美、あるいは愉快、あるいは有益ならば、心の中に繰り返して幾たびも、こう云われる、「嗚呼、神の善、神の美徳に勝る善且つ美は、いずこにあらんや。神は凡ての善、凡ての徳の、唯一なる泉ならずや。神を愛するより一層有益なる事、愉快なる事を、想像し得べきや。けだし神を愛すれば、人は神に化し、神によって満腔の快楽を得、且つ喜ぶものなればなり」と。

 尚また人の心は神のものである、何故なれば、神はこれを造り、これを贖い、日々に新しき恩を施して、「我が子よ、我れに心を与えよ」とのたまい、人の心を求め給うからである。

 斯く人の心は神のものなるに、自らは浅ましくして、なかなか己が義務を果たすことは、到底出来ぬ故、何よりも神をのみ愛するように、また聖意に適う事をば聖意に適う程度と方法とによって愛するように、特に心と力とを尽くさねばならぬ。

 この通りに、心と力を尽くして努むべき事は、嫌いと云う情慾についても為すべき事である。嫌いは愛と同じく、キリスト教に於ける完徳の、基礎であって、嫌うべきはただ罪と、凡て罪に誘う事とのみである。

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