第8

世間に打ち勝つには意志が非常に助力を要す

 専ら我等に情慾を起させ、これを強からしむるものは、世間と凡て世間に属するものとである。即ち世間は我等の眼前に、その高位、その宝物[ほうもつ]、その快楽等を見せ、以て我等の心を引き込むのである。然るに意志は、この世間の誘引に勝った上、しばらく息をつき、他の目的に向わんとする事がある。何故なれば、意志は何かを愛せず、何の快楽を覚えずにはおられぬからである。

 世間に打ち勝つ方法は、先ず世間、及びこれに属するものは、実際何物であるかを、真面目に考える事である。我らは時によって、慾の為に目を非常に眩まされて、迷いを避けるにサロモンの経験上の格言を以て、我が考え、及び決心を強むる必要がある。サロモンは国王の最も賢者にして、世間萬事について、憐れにも実験した挙句の言葉に、「空の空、空の空なるかな、凡て空なり、心の悩みなり」と云うた。

 我等も日々にこの言葉の真実なるを自ら実験す。見よ、人の心は、飽くまで楽しむ事をしきりに望み、欲しい事を悉く与えられても、飽き足らぬのみならず、却って空腹[ひもじさ]がいや増すのである。これは怪しむに足らぬ。世間の物事を楽しめば、影を喰うばかりであって、精神を奪うものは、夢、空、迷いなるもののみである。これではどうしても、空腹を飽かす事が出来ぬ。

 世間の約束は無実が多く、迷いに満たされ、一つの事を約しても他の事を与え、幸福を与えんと約しても与えるのは憂慮のみ、約すると雖も多くは何をも与えず、あるいは与えて直ぐに取り返すのである。よしや与えたものをしばらく渡して置いても、これは情慾を引き起こされたもの、不潔を以て望みを満たしたいものの憂慮を増すばかり。そういう人には詩篇の言葉の「人の子よ、汝らは我が光栄を恥じしめて、何時まで心が頑ななるや、何故に空しき事を好み、偽りを慕うや」と云われるのである。

 斯かる明盲目に対しては、世間の偽りの宝に、何か実際好い所があると譲るにしても、彼等は地上に於ける人の生命が、矢よりも早く過ぎ行く事について、尚目を眩ます事が出来るか。既に代々の帝王、国王、諸侯、君等の得た快楽、高位、栄耀などはどうなったかと云われようか。これ皆つとに、影の如く消え失せてしもうた。

 然らばもし実際世間に勝つ事を欲し、自ら世間を否み、また世間に否まれ、なお聖ポーロの言葉の如く「我等世に向っては、己れは十字架に釘けられ、世も我等に向っては、十字架に釘けられたるものの如く」なりたいと思うならば、真正[ほんとう]の道はこうである、即ち、我が意志が世間の誘惑力に奪われぬ前に、世間の空と迷いに過ぎぬ事をとくと考え、而して知識と意志との目が醒めたならば、世間を軽んずる事は容易くして、凡て身を差し出す被造物[つくられたもの]に向って、斯く云う事が出来る、「汝等は皆被造物に過ぎぬ、退け、我れは汝等に愛着する事を好まず、我が被造物の中に求むるはその造り主なり、我が欲するは身体にあらずして精神なり、我れは決して汝等を望まず、我が望み、我が愛はただ、汝等の特点〔=特性?〕の出所なる神にのみ向う」と。

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