第26

如何にして自愛を認むべきか

 自愛が如何ほどまで我等を支配するかと云う事をよく認むるには、我が意志が如何なる情慾に専ら引き込まれるかと云う事を度々調べねばならぬ。即ち、意志が物を愛したり、望んだり、喜んだり、悲しんだりするのを見て、果たしてその愛する所、望む所のものが、愈々善徳に起因するものであるか、神の掟に合うか合わぬか、またその喜びや悲しみが全く神の思召しに適うているか、あるいはこれに反して、世間や被造物に対する愛着心から起っておりはせぬかを、よく見ねばならぬ。また、我等が被造物に対する動作は、必要のためであるか、入用に応じてであるか、神の思召しに従うてであるか、と云う事を調べねばならぬ。

 もしこの種々の点について何か誤っていると認めたならば、疑いなく自愛が、我等の意志の中に頭立って、我等の行為の主な原動者になると云う訳である。

 たとえ我等の意志はただ善徳、または神が我等に要求し給う事のみを専ら望んでいると見ても、そうするのは実際、神の思召しに導かれてするのか、あるいは何か好く事があって、出来心でするのではないか、と云う事を考えねばならぬ。何故なれば、時によっては、我等が身を委ねてする所の善業、祈祷、断食、聖体拝領等の信心の修業が、斯かる不完全の心組みより出る事が往々あるからである。

 斯かる不完全な心組みを認むるに、助けとなるものが二つある。先ず我等の意志が、凡て善を為す機会を、如何なるものであっても、好き嫌いの別なく喜んでこれを受けるか。またもし困難の起りそうな時に、悲哀[かなしみ]や憂慮[しんぱい]や心の乱擾[みだれ]に陥るならば、あるいは成功の時、無駄に満足して自負に流れるならば、これ不完全の心組みの証拠になるのである。実際に神が我等の心組みを最初から起させ給うたとしても、なお事を為すに定むる目的の重[おも]なるものは何であるかを見ねばならぬ。もしただ神の聖意のみを目的とすれば良いが、それでも全く安んじてはならぬ。何故なれば、自愛と云うものが甚だ狡猾にして、一番良き行為の中にも、ごく密かに染み込み、道徳を実行するにも染み込む故、用心せねばならぬのである。この自愛と云う奴が顔出しすれば、直ぐ非常の憎みを以て、殺してしまうまで追いかけねばならぬ。何時でも、何処でも、いと小さき事についても、自愛を殺してしまわねばならぬ。隠れた敵を何時も用心すべきものであるから、何か善業でも致した時には、神の尊前に謙り、己れを咎めて、主に赦し給わん事と、自愛を避けしめ給わん事を、一心に願わねばならぬ。日々こうでもすればよい、朝から精神を神の方へ上げて、何時にしても決して背かず、別して今日は背かぬ事を約し、却って何事もただその尊き思召し、その聖意に適わんとの唯一の目的を以て、これを全うせんとのみ望む事を示さねばならぬ。そう云う志を以て、神にしばしば祈祷を以て依頼し、我等を棄てる事なく始終保護し給い、我等に要求し給う事を覚り、何時もその尊き思召しに適合する覚悟をしている事を、願わねばならぬ。

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