第27

意志に得さすべき第六の助力

 人の意志に得さすべき第六の助力とも云わるるものは、ミサに与り、悔悛と聖体の秘蹟を授かる事である。何故なれば、我等の意志が悪を避け善に進むに必要にして重[おも]なる助力は聖寵であるから、聖寵を増す所のものは凡て意志の本当の助力になる。然るにミサに与って、以て聖寵の増すを得るには、左の如くに拝聴せねばならぬ。

 既に知らるる通り、ミサ聖祭は、これを三部に分けることが出来るが、その第一部、即ち入祭の時よりパンと葡萄酒とを奉献するまでは、努めて心の内に、神を愛する熱心の望みを起さねばならぬ。神の御子が天降りてこの世に生まれ、愛の火を燃やさん為に来たり給える如く、また我等の心の底まで下ってこれに生まれ、愛の火を以てこれを燃やし給わん事を願い、以後は如何なる場合にも、生死[いきしに]とも、始終聖意に適わん事のみを専ら考えたいとの望みを献げねばならぬ。

 司祭が主祷文を唱うる時、浅ましき我等もこれに祈祷を添え、望みの熱心を倍にして、最も要する所の恩寵を賜わらんことを、神にしきりに願わねばならぬ。

 使徒の書簡や福音を読まれる時には、心の中に神に願うて、その尊き言葉をよく覚り、実際の生活の中に、身をこれに従わせん為、知識を開き、聖寵を賜わらん事を、祈らねばならぬ。

 第二の部、即ち奉献の時より、聖体拝領の時まで、心の中に凡ての被造物及び自己を解脱して、神の思召しに身を委ねる為、己れを悉く神に献げねばならぬ。

 奉挙の時、キリストの血肉と神性とを謹んで拝礼し、斯くパンと葡萄酒との形色の中に隠れ給うを見て、愛情に充たされて斯く十字架上に結び給う尊き身を、忝くも日々持ち来たり給うを深く感謝し、ガルバリヨに於て御自身を天父に献げ給いし時の目的と一致して、その奉献に己が奉献を合わせねばならぬ。

 司祭が聖体の秘蹟を授かる時、我等は少なくとも精神的にこれを拝領し、心の門を被造物に閉じ、これをキリストに開いて、専らその愛の火を以て燃やされん事を願わねばならぬ。

 終に第三部に於て、司祭に心を合わせ、拝領後文を実際に唱うる時には、我等は心の中に、それと等しき恵みを、一心に願わねばならぬ。

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