第33

罪人は一刻も早く改心すべき数箇条の理由

 罪人を一刻も早く神に立ち帰らすよう、勧めとなるべき第一の理由は、先ず神そのものの観念である。神は取りも直さず最上の善にして、極めて全能全智全善なるものにてましますに、如何にして人が厚かましくもこれに背き、これに抵抗する事あるべきや。

 罪びとの身として、これを審判すべき全能者と争うのは、愚かの甚だしき事ではないか。ただに愚かなるのみならず、大いなる不正且つ忘恩である。実に何にも成らぬものなる被造物が、造物主に背き、下僕たるものがその主人に手向かい、限りなき恩を受けたものがその恩者に逆らい、子たるものがその父に反するとは、忍び得べきものであろうか。

 第二の理由は、罪人が早く父の家に帰るべき重大なる義務である。放蕩息子が改心して父の家に帰るのは、父の栄誉と成り、家内中の歓喜と成り、隣近所のものにも天使の為にも、大いなる歓喜と成るのである。

 その子は罪を以て己が父に背き、恩を知らずしてこれを悲しましておったが、心の底より後悔して、目に涙を浮かべて帰った時、将来は父の戒めを悉く守ろうとの堅き決心あれば、その喜ばしき志は父の栄誉と成りて、その心を喜ばせ、非常に不憫がらしめて、その子の来たるを待ち切れず、これを入れんとの熱心なる望みを以て出迎えに走り、その首に抱き付き、これに接吻して聖寵の着物を着せ、その賜物を以てこれを富ますのである。

 第三の理由は、己れの利益と云う事である。罪人がもし改心せぬならば、何時か改心する事能わざる時がきっと来ると覚えて、その時には限りもなき地獄の苦しみに処せらるべき事を考えねばならぬ。そう云う時になったら、その最も大いなる苦しみは即ち、罪に誘うた邪慾の渇望が益々増加するを覚えて、一つもその渇望を遂げる事能わず、限りなく自ら招いた罰を受けて、父なる神に打ち棄てられてしまうと思えば、実に震え慄く筈ではないか。

 臨終まで改心を延ばし、あるいは数年数月の後にこれを延ばすのは、口実の立たぬ自負心から起ることで、斯かる決心は実に愚かにして、甚だしき悪心を覆うのである。最も重大なる困難をば、最も弱った時に打ち勝とうと思うのは、道理に乏しき証拠である。何故なれば、罪の中に継続すれば、罪人は日々改心に怠けて来るので、罪の癖は益々増長して、第二の天性となる。そうなった時には、罪人は益々改心の恵みを頂くことを自ら嫌うを覚えて、神を見下げるが如く、愈々これに遠ざかって、被造物の中に、鉄面皮[あつかましく]も悪しき満足を求むるのである。而して神に立ち帰る事を臨終まで見合わせ、日に日に延ばして、終に天主の御憐れみを倦まし、要すべき効き目の助けを断られるようになるのである。

 改心を延ばそうとする決心は、愈々危険極まるという訳が、もう一つある。即ちたとえ罪人は改心し得るとしても、また効き目ある聖寵が得られるとしても、誰も頓死せぬとは請合われず、あるいは口の利かれぬような病気に罹るかも知れぬ。そういう例は実に沢山ある。

 嗚呼、罪人にしてこの書を読むならば、請う、主にしきりに叫んでこう申し上げるが良い、「嗚呼、主よ、我をして改心せしめ給え。然らば我れは改心せん。主は我が主にして、我が神にませばなり」と。 天父に立ち帰るまでは止めずしてしきりに祈れ。またひどく罪を嘆き悲しみ、神の正義を満足せしめん為に、困難を与えられる限り、これを悉く全く甘んじて戴こうと云う志の起るまで、止まずして祈らねばならぬ。

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