2014.07.16

悪魔の腐った舌 『信教の自由に関する宣言』 Part 12

激し過ぎる表題? そんな事はない筈です。一緒に見て下さい。

「自由」と「強制」、その二つしか知らんのか(2)

10(自由と信仰行為) 神のことばに含まれ、教父たちから常に説かれた(注 8)カトリック教義の主要点の一つは、人間は自由意志をもって信ずることにより神に答えなければならない、ということである。したがって、何人といえども、自分の意志に反して信仰を受け入れるよう強制されてはならない(注 9)。実際、信仰行為は、その性質上、自由意志による行為である。なぜなら、救い主キリストからあがなわれ、イエズス・キリストによって神の養子として召された(注 10)人間は、父に引かれ(注 11)、信仰の合理的な、そして自由な服従を神にささげなければ、自分自身を啓示する神に同意することはできない。そのため、宗教の問題においては、人間からのあらゆる種類の強制が除かれることが信仰の性質に完全に一致する。したがって、信教の自由の制度は、人々が拘束されずにキリスト教の信仰に導かれ、自発的に受け入れ、生活の全面にわたって、それを実践できるような環境を作るために少なからず貢献する。

全文  英訳  ラテン語

 大方、「当り前」のことを書いている。しかし本当は「あらゆる種類の強制」という言い方が曲者である。「強制」という言葉には具体的にどのような事が含まれるのかが極めて重要である。

 文字通り「人の首に繩付けて引っ張って行く」ような行為。それは「強制」か? もちろん「強制」である。然り、その通り。

 「悔い改めよ、改宗せよ、さもなくば汝を○○の刑に処す」というような迫り方。それは「強制」か? もちろん「強制」である。二つの選択肢を示そうと、それは実質的に「強制」である。然り、その通り。

 しかし、その他には? 具体的に。
 国井神父様あたりに訊いてみたい。

11(キリストおよび使徒たちの模範) 神は自分に霊と真理とをもって仕えるよう人々招いている。そのため、人間は良心において束縛されてはいるが、強制されてはいない。

全文  英訳  ラテン語

 人間の現実から離れ切った「言葉だけ」の世界である。「自分の良心による束縛」などというものは、実際上、人間にとって少しも「束縛」にならない。「少しも」が言い過ぎなら言い直そう、束縛と云うほどの束縛、人間がそれに助けられて「善の道」や「神への道」を安全に進み続けることが出来るほどの束縛にはならないのである。
 もともと「公教会のおきて」などの "外的束縛" は人間を助けるためのものである。それは必要である。しかし、宣言はそれに触れない。

 彼が提示するのは「自由意志」vs.「強制」という単純過ぎる二元的構図である。そして「強制」という極端なケースについては、誰もこれを否定しないわけにはいかない。そして「神は人間の自由意志を尊重される」というのは或る意味本当である。従って、その構図を使う限りは、彼の主張は反対されにくい。しかし、そもそもその単純過ぎる(極端な)二元的構図を使うことが「インチキ」なのである。

 現在の教会は、このような悪の論述(レトリック)に惑わされて、事実上、「公教会のおきて」などスッカリ引っ込めてしまった*。「自由」と「強制」の間にあらゆるグラデーションがあるべきことを、要するに「指導性」ということを、思わなくなってしまった。

* 事実上そうである。現在の教会にとって「義務」や「おきて」は教会法やカテキズムの中に《書かれて》あればそれで済むことになってしまった。すなわち教会は、例えば主日の義務を守らない信者が多く出ているのを明らかに見て取っても、それをほとんど "普通の状況" と受け取っており、それについて特別何か《言ったり》《したり》しないのである(司祭は説教壇の上から言うこともできるのに)。それでいて他方、「われわれは懸命に努力しているが、うまく行かない」と言うなら(参照)、どうかしている。

 (11、第一段落の続き)

実際、人間は自分の判断で行動し、自由を行使するが、神は自分自身が創造した人間の尊厳を考慮する。このことは、神が自分自身とその道とを完全に現わしたイエズス・キリストにおいて最もよく示されている。実際、われわれの師であり主でもある(注 12)心の柔和で謙遜なキリストは(注 13)、弟子たちを忍耐強く招き、召し出した(注 14)。もちろん、奇跡をもって自分の説教を裏づけ、確証したが、それは、聴衆に信仰を起こさせ、それを強めるためであって、圧力を加えるためではなかった(注 15)

全文  英訳  ラテン語

 最後の「圧力を加えるためではなかった」というのがどうかしている。彼は「外的拘束力」を排除するためなら何でもする。馬鹿馬鹿しい事を言うことさえ恐れない。

不潔な反転形式

 (11、第一段落の続き)

なお、聴衆の不信仰を非難したことも確かであるが、それに対する罰は、審判の日まで神に残した(注 16)使徒たちを世に派遣するとき、「信じ洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられるであろう」(マルコ 16・16)とかれらに言った。しかし毒麦が麦といっしょにまかれていることを認め、世の終わりに行なわれる収穫の時まで、どちらも成長するにまかせるよう命じた(注 17)

全文  英訳  ラテン語

 この、いわば「反転形式」の言い方が実にいやらしい。欺瞞的である。

 彼は一見、主の御事跡の中から見るべきものを丁寧に拾っているようでありながら、実は、それぞれの扱いに於いて不公平である。すなわち彼は、上の黄色でハイライトした部分をいわば実質的に "無効化" し、他方、ピンクでハイライトした部分を "前に出して" いる。

 もし彼が御子キリストに真に「忠実」な者なら、黄色でハイライトした部分をも「キリスト教の信仰の行為」(9 の最後 の彼自身の言葉)の中に何らかの形で残さなければならないと提案しただろう。

 神父様方、そうは思わないだろうか。
 もし「主が聴衆の不信仰を非難したこと」も、他の事と同様に確かならば、私達も何らかの形で、すなわち一定の "神経" を使いつつも、人々の不信仰に対して「真理を暗まさない態度」を持っていなければならないのではないだろうか。

 そして、もし主が「信じ洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられるであろう」と仰せられたことも、他の事と同様に確かならば、私達も何らかの形で、すなわち一定の "神経" を使いつつも、世と人々に対して同じ事を言わなければならないのではないだろうか。

 「半分しか従わない人、半分しか倣おうとしない人」は「忠実」の名に値するだろうか。

 それとも、この筆者が上の黄色でハイライトした部分を実質的に "無効化" しているというのは私の勝手な受け止め方だろうか。
 確かに、私はこれを「証明」できない。ただ、彼の文章をこれまで読んで来た私の心が告げるのである、明らかに告げるのである、「この人物は、黄色でハイライトした部分に関し、決して主に倣う人ではない」と。

 (11、第一段落の続き)

政治的なメシアになり、力による支配者になることも望まず(注 18)、自分が「仕えるため、多くの人のあがないとして自分の生命を与えるために」(マルコ 10・45)来た人の子であると言うことを好んだ。キリストは、「傷ついた葦を折らず、くすぶる燈心を消さない」(マタイ 12・20)神の完全なしもべの姿で現れた(注 19)。「セザルのものはセザルに返し、神の物は神に返せ」(マタイ 22・21)と、セザルに対する納税を命じ、公権とその諸権利を認めたが、はっきりと、その上の神の権利を尊重するように教えた。最後に、十字架上で、あがないのわざを成就し、人々に救いと真の自由とをもたらし、その啓示を完成した。キリストは真理に証明を与えたが(注 20)、それを反対者に力づくで押し付けなかった。

全文  英訳  ラテン語

 ここも最後の「それを反対者に力づくで押し付けなかった」というのがどうかしている。「押し付けなかった」のは「押し付ける」ことなど「論外」だったからに過ぎない。主はその時「押し付けなかった」ことで、「義務」や「権威」が持つ力(干渉力、圧迫力*)までも「不要のもの」と示し給うたわけではない。宣言筆者がこねているのは小学生レベルの小理屈に過ぎない(小学生に失礼か)。驚くほど表面的で安っぽい "パッチワーク" である。こんなものに心動かされるカトリック司祭は居るのか?

* 人間は「圧迫」を感じたり義務の柵の中に「囲われている」と感じるのが好きではないけれども、しかしそれは必要なのである。

 「時代」のことを少し。

 この『宣言』は1965年に公布されたが、1948年には国連の世界人権宣言が「信教の自由」について次のように言っているのである。

第18条 すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。

Wikipedia 「信教の自由」

 日本国憲法もその前年(1947年)に「信教の自由」を謳っている。
 世界は既にその方向に進んでいたのである。
 世界の市民社会に於ける信教の自由を守るためには、国連の世界人権宣言で十分だったことだろう。
 世界人権宣言から17年後に、『信教の自由に関する宣言』は実に熱心に説いたものである。

 つまり、違うのである。時代ばかりでなく、何より今まで見て来た内容からして、『信教の自由に関する宣言』の目的は、真の目的は、「市民社会に於ける信教の自由の大切さ」を訴えることなどではないのである。なるほど、「体裁」はその通りである。しかし、その真の狙いは──「カトリックの信仰を変えること」である。

結 論

 『信教の自由に関する宣言』は、教会の「指導性」を弱めたい勢力が、人間の「宗教に向かう本性」を非現実的に高く認めながら、「人間が自分を神に関係づける任意で自由な内的行為」に偽りの尊敬を捧げながら、その保護を「強制」という極端語の連呼によって求めながら、「市民社会に於ける信教の自由」を論ずる装いの下に、実はカトリックの「信仰」を変えさせることを目的とした、彼らの心理戦争(Psychological Warfare)のためのマインド・コントロール文書である。

これにて『信教の自由に関する宣言』について終わる。

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