2015.01.14

「手による聖体拝領」 は御聖体に対する現実的な加害である
Part 4

ローマからの驚くべき返答

 前回紹介した実験を行なったチャールズ・セント・ジョージ氏は、その実験結果をヨハネ・パウロ二世教皇様宛の書簡に添えて送ったということです。そして、それに対しバチカンから返事が来たということです。

 その返書を書いたのはペドロ・ロペス・クィンタナという大司教様ですCatholic-Hierarchy  / Wikipedia-en。2003年以降各国への「教皇大使」を務めることが多くなった人のようですが、しかし一時期「バチカン国務省補佐官」の任に当たっていたようです。

 以下に彼の返書を訳してみましたが、私は、彼のこのような「判断」は「酷いもの」だと思います。そして、その「酷さ」にも拘わらず、現代の神父様方はこれに容易に頷いてしまうのではないかと心配です。〔 〕は管理人による挿入。

The Angelus Online

Secretariat of State
Section One-General Affaires,
Vatican, June 21, 2002
No. 513185

Dear Sir,

教皇ヨハネ・パウロ二世に成り代わり、あなた様の4月17日付けの御書簡と、その中の聖体拝領に関する御提示と御資料とに感謝申し上げます。

あなた様の疑問に対する回答は、教皇様が承認された諸文書の中に含まれています。『ローマ儀式  ミサ以外のときの聖体拝領と聖体礼拝』の一般緒言の21番に。そして、典礼秘跡省の『指針  Varietates Legitimae』の31番、54番、62番に。これらの文書は立って手で受ける聖体拝領を許しています訳注1。もし或る人の態度が、そこに来られようとしている神と出会うための尊敬の態度であるならば、それは間違ったものではありません。カトリック教会のカテキズムは、この問題に関して次のように言っています。「信者は聖体をふさわしく拝領する準備として、自分が属する教会の定めに従い、飲食物を控えなければなりません。尊敬を表す態度や身なりをして、わたしたちの賓客(guest)になられるキリストをお迎えする厳粛さと喜びとを表現しなければなりません」(カトリック教会のカテキズム 1387番)訳注2。それらの指針の実際的な応用は、拝領者が聖体によって何を受けるのかを意識している事、そして拝領者がパンの形色の下に現存されるキリストに対する彼らの尊敬を表わしている事、この両方を確かなものにする義務のある聖体授与者に任されています。

[てのひら]は人体の一部として舌よりも尊敬に値しないなどという事は少しもありません。キリストは「大地の恵み、労働の実り」であるパンを聖体の材料として受け入れました。最後の晩餐の時、彼は聖体を彼の弟子たちの口に与えなかったばかりでなく訳注3、彼がその中に現存する聖変化されたパンから幾らかの欠片[かけら]が出ることは避けがたいと知りながら「それを割って、与えた」のです訳注4。従って、教会の規則は、聖体を与えている司祭と拝領者は、光学機器の力を借りずに視認可能な聖体の欠片に関してだけ責任を負う、と言っています訳注5。西方教会は、実際面で物事を容易にするために、時代の推移と共に、聖体を信者の舌の上に直接与える伝統を発展させました訳注6。しかし、聖体拝領のその伝統的方法に固執する理由はありません。それよりも訳注7、毎日の礼拝によって聖体を尊敬できているか、また、他の人達が威厳のある仕方で聖体拝領することを助けることによって、聖体拝領が頻繁なのものとなるようにしているか、等々に関して心を配ることの方がより適切でしょう。神聖冒涜は、意識的にまた望みつつ「聖体を投げ捨てたり、邪悪な目的のために手に入れ、また保存する」ことによってのみ犯されます訳注8

従って、聖ピオ十世会のメンバーたちによって挙行されるミサに参加する必要はありません訳注9。その会はカトリック教会と一致していないので。更に言えば、その会のミサに参加することは非常に不適切なことであるでしょう。

私は、あなた様を、聖体のキリストの愛に留まるよう、聖体を礼拝し尊敬するよう、しかし過度に綿密にはならないよう訳注10、励ましたいと思います。そしてまた、教皇様があなた様のために祈り、あなた様のために神に恵みを求めておられることを、あなた様にお約束したいと思います。

Respectfully,

Monsigniore Pedro Lopez Quintana
ASSESSOR(バチカン国務省補佐官)

訳 注
(管理人コメント)

[1]

『ローマ儀式  ミサ以外のときの聖体拝領と聖体礼拝』とは、『各司教協議会宛の書簡』のことを取り上げた時参照に出て来たあの儀式規範書のことです。公布は1973年。

『指針 Varietates Legitimae』とは、典礼秘跡省が1994年に公布したインカルチュレーションについての指針らしいです。使徒座公報には1995年度版に載せられていますPDF, p.288-, ラテン語)。 英語訳   ドイツ語訳

しかし、私達はそれらを詳しく調べる必要はありません。何故なら、「手による聖体拝領」は是すべて『メモリアーレ・ドミニ』と『書簡』(共に1969年)に端を発していて、それ以降の教会文書が「手による聖体拝領」を認めている部分はそれらの “落し子” であるからです。

[2]

カトリック教会のカテキズム(1992年)の「わたしたちの賓客(guest)になられるキリスト」という言葉は「不穏」以上のものです。現代のミサでは、主イエズス・キリストが「guest」で、人間が「host」になったのです。しかし真実は、宴の主人はあくまで天主様であって、人間こそが客、場合によっては「外に放り出され、歯ぎしりする」可能性のある客であるという事です。

[3]

恐怖の「断言」作戦。 参考

[4]

確かに、パンを割ればパン屑が出るのは避けがたいことです。そして、聖書には確かに、主は「それを割って、与えた」と書いてあります。しかしこの事が、〈主は、パンを割った後のパン屑には、何の御心も留めなかった〉ということを証明しているわけではありません。聖書に書かれなかった多くの事もあるだろうからです。

[5]

彼はチャールズ・セント・ジョージ氏の実験前回が「肉眼で見える欠片(naked-eye visible particles)」を対象としていたことが「見えない」ようです。彼も結局「見たいものを見、見たくないものは見ない」人の典型なのです。

[6]

彼は「聖体を信者の舌の上に直接与える伝統」は「聖体に対する崇敬」から生まれたと言わず、「実際面で物事を容易にするために」生まれたと言うのです。どういうことでしょうか。せめて「聖体に対する崇敬という側面もあった」ぐらい言ったらどうでしょう。考えられないことです。

私の誤訳ではないでしょう。
To make it easier in practice, the western Church developed through the ages a tradition of passing communion directly on the tongue of the believer.

[7]

彼はここで話の方向を変えます。
私達は聖イグナチオ教会の主任司祭ドメニコ・ヴィタリ神父様の口振りを思い出すことができます参照。「最も大切なことを忘れているのではないでしょうか」という言葉で、彼は読者の視線を変えさせたのです。

思うに、このような話の “持って行き方” は「第五列」の司祭たちのよくやることでしょう。もっとも、「第五列」にも二種類あるようですが参照。しかし、たとえ「善意」からではあっても、話されている事柄が神に対する「重大さ」を含む可能性があるならば(その可能性を少しも感じていないなら仕方がないが!)、「それよりも」ではなく「それについても」と言うべきでしょう。「それについても皆でよく考えてみましょう」と。

[8]

私自身、「手による聖体拝領」を悪意なく続けている人達に「冒涜」という言葉を当て嵌めたいと思ったことはありません。『カトリック小事典』で「冒涜」という言葉を引いてみても、「意識的」「故意」という要素のない行為を「冒涜」と呼ぶことはできないようです。

しかし、ここで紹介した幾つかの実験報告を見てしまった人に於いては、事はそう簡単ではないだろうと思います。何故ならば、そのような人はもはや「無知」ではないからです。それらの実験結果によって「『手による聖体拝領』に於いては『舌で受ける御聖体拝領』よりも比較にならないほど無駄に失われる御聖体の欠片が多い」ことを知ってしまったからです。それを知ってなお「手による聖体拝領は問題ない。続けてよい」と言うならば、どういう事ですか? やはり「冒涜」に近いということになるのではないでしょうか。知りながらそうしたりそう言ったりするという事ですから。

(それとも、「オランダ新カテキズム」のようにでも考えてみますか? 「ホスチアから剥がれ落ちた小片はもはや聖体ではない」と?)

[9]

どうして聖ピオ十世会のことを言い出すのか分かりません。

[10]

without being too scrupulous
結局、何を言おうと、彼のものの見方の根底はこんな所にあるのです。「まあ、あまり細かいことは気にしないで下さい」ということです。「肉眼で見える欠片」がどれほど剥がれ落ちているかを知らされても、結局、彼はそう言うのです。

彼はいわばこう言うのです。「私には、あなた様が少し綿密過ぎる──周到過ぎる──厳密過ぎる──神経質過ぎる──ように思われます。私は確かにあなた様がなさった実験から人々の掌や指先に肉眼で見えるほどの聖体の欠片が点々と付き、またそこから床に落ちたりなどしているだろうことを予想できます。しかし、私にはあなた様の御態度がどうも “過度に厳密” のように思われるので、その科学的統計が如何に私達に『現実』を映して教えていようと、私はそれを顧慮しないことにします」と。

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