1975年10月31日(前半)
E = エクソシスト
J = イスカリオテのユダ、人間の悪霊
ユダは教皇について、また教会内の濫用について語る
E: イスカリオテのユダよ。我ら司祭は、至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、福いなる童貞、天主の御母マリアの聖名によりて、無原罪の御孕りの聖名によりて、全ての聖なる天使と大天使の聖名によりて、祝されし霊魂の九つの階級と天の法廷に立つ全ての聖人達の聖名によりて、汝に、我らに語るよう命ずる。汝は本当に去ることになっているのか? 真実を述べよ、イスカリオテのユダ。真実以外は何一つ言ってはならぬ。これら全ての守護者の聖名によりて、また、汝の膝に置かれた聖遺物の聖名によりて、汝は真実を、真実のみを言わねばならぬ。
J: 私は語らねばならない。私は語らねばならない。私はある意味、天使的悪霊(angelic demons)の一部であり、それらと同列とみなされる。私は重要だった、私は重要だった、私は司教だった [28]
E: 続けよ! 真実を述べよ! ... の聖名において、お前が言わねばならぬことを言え!
J: 私は他の人間の悪霊(human demons)よりも重要な存在だ。前にも言ったように、私は恐ろしく暗い境遇にある。彼ら人間の悪霊達... 私は彼らが羨ましい。彼らは私と比べれば恵まれている。私は不快極まりない境遇にある。
E: 続けよ! ... の聖名において、お前が言わねばならぬことを言え!
J: 彼女〔上を指差す〕は、私に警告し続けた。彼女は私に警告した。しかし私はそれを聞き入れなかった、聞き入れなかった。〔ゾッとするような泣き叫び〕
E: 続けよ! 福いなる童貞の聖名において、真実を、お前が言わねばならぬことを言え!
J: 私が彼女に聞いてされいえれば! どのようにか、私は彼女のことで間違った。私は彼女を愛さなかった。私は彼女を愛さなかった、この...
E: 福いなる童貞の聖名において、真実を述べ続けよ! 真実を述べよ、イスカリオテのユダ。彼女に代わってお前が言わねばならぬことを、言え!
J: 実を言えば、私は最初から、かなりの程度、イエズスのためにそこに居たわけではなかった。私は権力と王位を望んでいた。しかし、それは起こらなかった。私は失望したのだ!
カトリック教会の現況
J: カトリック教会は重大な状況にある。上のあそこ〔上を指差す〕の彼らの干渉なしには、それは自らを救うことができない。しかし、次の言葉は成就されなければならない。「私は世の終わりまで常におまえたちとともにいる」(マタイ 28:20)。全面的な浄化が起こるだろう。恐ろしい浄化が起こるだろう。知っての通り、我々には大して関係のないことだが。
E: 続けよ! ... の聖名において、真実を述べよ!
J: 我々は今、お前達の周りにいる。特に最近の数ヶ月において。以前にはなかったほどに。
E: 続けよ! ... の聖名において、真実を述べよ!
J: あらゆることが、一千年前からなかったことだ。
E: 続けよ! 真実を述べ、真実でないことは一つも言ってはならぬ! 福いなる童貞の聖名によりて、教会について真実を述べよ!
教皇パウロ六世の状況 [30]
J: 教皇、教皇... 彼は殉教者だ。あるやり方で、彼は全く抑圧されている。彼は死を願っている。彼はこれらの状況下で生き続けたいとは願わない。彼は、彼の言うことが全世界に向けて公表されず、枢機卿達が公表するものは全く彼の望むものではないことを知って苦しんでいる。全ての出来事において、多くの、全てではないが、多くの枢機卿達が関わっている。教皇はひどく裏切られている。彼はどんな実際の刑務所よりもきつい刑務所の中にいる。我々悪霊達が彼の上に強大な圧力を加えている。我々は、我々ができるあらゆることをしている。既に多くのことを成し遂げた。
E: 続けよ。真実を述べよ... そして、真実以外は何一つ言ってはならぬ!
J: 彼は自由を奪われている。それ故、彼はもはやいかなる重要なことも為し得ない。これが、我々が彼のことをアシナシトカゲと呼ぶ理由だ。それは地面を這うことによってしか痛みなしに動くことができない。彼は、右を見ようが左を見ようが、前を見ようが後ろを見ようが、言うべきことを持たない。これは、彼が去るのを見たがっている偽りの者達が起こしたことである。
E: 続けよ。福いなる童貞の代わりに真実を、全ての真実を語り、真実でないことは一つとして言ってはならない! 天の代わりにお前が語らねばならぬことを、語り続けよ!
彼は偉大な教皇だが、彼の手足は縛られている
J: お前達は教皇のために祈らなければならない。彼はどんな殉教者達よりも悪い状態にある。彼はほとんどスフェファノのように石で打たれるだろう [31] 。彼は沈黙を強いられているが、偉大な教皇である。彼は十字架を運んでいる。彼は小さく、また力なく見えるが、彼の徳に比肩し得る者はほとんどいない。初めの頃に彼は幾つかのミスをし、そのことにかなり前に気づいたが、今や彼の手足は縛られ、 [32] 更に舌さえ縛られている。彼は天に向かって、古い典礼を回復したいと、トリエント・ミサを回復したいと、叫びを上げている [33] 。彼はそうしたい... だが、彼の手足は縛られている。彼には何もできない。
E: 福いなる童貞に代わって、真実のみを語れ! 教会と教皇パウロ六世に関して真実を述べ、そして真実以外のものは何一つ言ってはならぬ!
J: お前達には教皇パウロ六世がトリエント・ミサの再導入を望んでいることが分かる筈だ。お前達がテレビで見る時にはいつでも、また、これらの新しい事柄の何かを見、あるいは読まなければならない時にはいつでも、これが教皇から来たものではないことを確かに知ることができる筈だ。
E: ... の聖名において、真実を述べよ!
天主自身が介入するだろう
J: 彼らは教皇を好きなように扱っている [34] 。彼らは猛り吠える狼達のようなものだ... それが彼らが望むこと、そして「現代の」人々、一般大衆が望むことだ。だから彼らは人気がある。全く近年においてのことだが、今まで教皇の考えに疑いを持つことを知らなかった善き「伝統主義者」である人々までが誤謬に導かれた。しかし、今の状況がこのようなものであるから、公表される教皇の考えはもはや彼自身のものではない [35] 。今、この恐ろしい無秩序の時代にあって、教皇は実質的にはもはやほとんど何もできない。今、天主自身が介入することが必要である... そして、彼は遠からず、間もなく、介入するだろう。
E: お前は「遠からず」という言葉で何を意味しているのか?「数年のうちに」ということか? …の聖名によりて、全ての真実を述べよ!
J: いや、そうではない。それはもっと近い。お前が考えているより近い。
E: 福いなる童貞の聖名によりて、教会と教皇に関して真実を述べよ! お前が言わねばならぬことを、しかし真実のみを、言い続けよ!
J: 教皇にとって最悪なのは、彼が、「伝統主義者」達さえも彼の考えと望みに疑問を抱いていることを見ることだ。彼は何もできない。彼がするあらゆることが妨害を受ける。彼が外部に手紙を出したいと思ったとしても、その手紙は元の内容のまま相手に届くことはない。それはポストに投函される前に修正される
E: 何故、彼は聴衆に向かって、広場にいる彼の聴衆に向かって、このことを暴露しないのだ? 彼は広場では自由に話せる筈だ。
J: 多くの場合、彼はもはやそうすることができない。もはやそうすることができないのだ。多くの場合、彼は自分が何を言っているのか、ほとんどわからない... これが、如何にこれらの恐ろしい誤謬と混乱が作られたかだ [36] 。彼は不運な教皇だ。聖母は彼を憐れんでいる。キリストもだ。しかし、彼は自らの殉教を生き抜かなければならない。彼は非常に長い間、このような生き方を続けるよりも彼自身の枢機卿達によって暗殺されることを望んできた。彼は彼らが自分に対立していることを知っている。彼はとても敏感にそれを感じ取っている。彼の神経は苛立っている。彼は力強い教皇ではない。が、彼らは今は力強い教皇を欲していない。そんなものが立ったら、それをもう一度倒すには長くかかり過ぎるからだ。
E: 福いなる童貞の聖名によりて、真実を述べ続けよ! 真実を述べよ! 我らは、…の聖名によりて、汝に禁ずる... 嘘を言うことを禁ずる!
J: 状況が今このようであるのも、謙遜で、従順で、無私な一人の教皇をその地位につけてこくことが天主の計画の一部だったからだ。聖書の言葉は成就されなければならない。これが、この時代に教皇パウロ六世が選ばれた理由だ。彼は事実上この目的のために選ばれた。彼らだけは〔上を指差す〕彼を憐れんでいる。しかし、これら全てはそう長くは続かないだろう。彼の殉教は間もなく終わる。しかし彼自身にとっては、これはとても長い時間だろう。彼にとって一日は一週間のようだ。否、それより悪く、一ヶ月のようだろう。お前達は彼のために祈らなければならない。たくさん祈らなければならない。あらゆるものが滅茶苦茶になり教会が崩れ落ちていくのを見るのは、彼にとってはゾッとすることだ。お前達は、彼が全てのことが昔通りのやり方でされることを望んでいるということを知らなければならない。それが、もし公会議が召集されていなかったらば、彼が望んだだろうことだ。彼は、公会議から引き起こされたこと、その恐ろしい、破壊的な、壊滅的な結果は止めることができない、ということに気づいている。それらは止めることができない。祈りによってでさえも [37]
E: 福いなる童貞に代わってお前が教会と教皇について言わねばならぬことを語り続けよ!
J: 全ての司教達が、教皇は教会を指揮していないということを知らされなければならない。しかし彼らは信じないだろう。彼らは盲目である。もし彼らが盲目であり、信じないなら、彼らの博士号と知性は何の役に立つのか! 我々はそれについてより多く知っている。司教達が知っている以上に多く知っている。
E: 福いなる童貞の聖名によりて、真実を述べ、真実以外は何一つ言うな!
J: 彼らは互いに恐れ合っている。彼らは皆人々を恐れている。彼らによって困難を与えられることを恐れている。彼らは人々がひくバイオリンの調子に合わせてダンスを踊っていたい。たとえその弓が美しい曲を奏でなくても。
E: 続けよ! 福いなる童貞の聖名によりて、真実を語れ!
J: このバイオリンはあまりに調子外れだから、間もなく音を出すことができなくなるだろう。これが自らを厚かましくも教会と呼んでいるところのものだ! 分かるか? これはまだ自らのことを教会と呼びたがるのだ! 憎むべき、不正な、転倒した教会! これが教会と呼べるものだろうか? 間もなく人がもはや耐えられなくなるものが... 間もなく人がもはや教会と呼ぶことのできなくなるものが! [38]
E: 今お前が言った「憎むべき教会」という言葉は、福いなる童貞の言葉ではない。
J: そうだ。それは正しい。それは我々の言葉だ。その言い方は我々自身のものだ。
E: 真実だけを述べ、福いなる童貞がお望みのことだけを述べよ!
J: しかしその全てに関わらず、それは真実だ。それはある意味、彼女が私に言わせたがっていることなのだ。
各教派の方がお前達のカトトリシズムより良くなるという段階がもう既に目の前に来ている。彼らはカトリックのような知識はないし、またカトリックが常にそうであったようには聖霊に導かれていないので、むしろ比較的に良い状態になるだろう。彼らは「それは聖霊によるものだ」と言っているが、しかし彼らが世界中に送り出したいと望んでいるのは、実は彼らの幻想の中の彼ら自身の考えに過ぎない。司教達の中にはこの種の(新しい種類の)カトリシズムを広げることにあまり乗り気でない者達も幾らかいる。彼らはまだ古いやり方を好む。しかしそうだとしても彼らはあまりに臆病だ。その臆病さは正に高き所に向けて──上の偉大なる御者に近いあそこ〔上を指差す〕に向けて──彼ら自身を告発するものとなるだろう。
E: 続けよ! …の聖名によりて真実を述べよ!
J: 多くの祈りがあるならば、幾らかの者は再び光を見るだろう。しかし多くの者のためには既に手遅れだ! 天はこれを悲しんでいる。福いなる童貞も悲しんでいる。教皇も悲しんでいる。これら三者──キリスト、聖母、そして教皇──は一致している。最近では、彼らは唯一、一致している者達だ。枢機卿達、あるいは枢機卿達の多くは、一致していない。彼らがしていることは、上のあそこの者達〔上を指差す〕が望んでいること、そして教皇が好むこととは一致していない。教皇は酷い、酷い状態にある!
E: 福いなる童貞の聖名によりて、真実を語り続けよ! …の聖名によりて、お前が言わねばならぬ全てのことを言え!
天主自身がモダニズムを投げ捨てるだろう
J: 我々は教皇を恐れる。しかし実際には、我々はもうそれほど教皇を恐れる必要はない。何故なら、彼のバチカンは既に枢機卿達に掌握されているからだ。教皇は絶え間なく苦しんでいる。しかし結局は、彼はその苦しみによって多くの霊魂を救い、我々が承知できる以上のものを達成することができるだろう。
E: 福いなる童貞に代わって、真実を述べよ! 完全には真実でないことは一つとして言ってはならぬ! 続けよ!
J: 予想されるのは、天主自身が全てを転覆し、モダニズムを追い払わざるを得なくなることだ。全てが、かつてはそうであったように──人間が、自分のために作ったものではなく過去の善い伝統的な古い方法に従い、為されねばならぬことを為し、また上のあそこの〔上を指差す〕彼らが望むことをするように──再び始められるだろう。
E: 続けよ! 福いなる童貞に代わって、真実を語れ! しかし真実以外は何一つ言ってはならぬ!
J: もし教皇が孤立していず、四方から監視されていなければ、彼はまだ彼の言葉を外界に届かせるために十分なコントロールを持っていただろう。しかし、ここ最近の数ヶ月において状況は更に厳しくなった。事実上、彼の言葉は何一つ公衆に届かない。そして彼がまだ公布したいと望んでいるものは即座に否定され、修正され... ほとんど捏造と言ってもいいくらいまで変えられる。そうだ、それは捏造される [管1]
枢機卿達にとっては、自分達の考えを世界中に普及するために「卑劣過ぎる」という手段など何一つない。卑劣過ぎるものなど何一つないのだ。何故なら、今は終末の時代だからだ。もし我々が彼らを操ってこの道に誘っていなければ、また我々が現にそうしているように枢機卿達を我々の支配下に置いていないならば、彼らももう少しはより良く自分自身を省みていたことだろう。しかし我々は全員忙しく走り回っているし、極めて多くの黒魔術に通じた者達が我々の道に従っているから、枢機卿達は現在完全に我々の支配下にある [41] 。お前達がすべき一番良いことは、聖霊に向かって多く祈ることだ。私自身とアカボルが従順について既に言ったように、私、ユダが言ったように──従うことはもはや義務的ではない [43]
教会における従順
E: 教会について真実を述べよ! …の聖名によりて、続けよ! …の聖名によりて、お前に嘘を言う権利はない!
J: 面白いことに、従順というものがこれほど大きな声で言われた時代はかつてなかった。つまり、現在ほどに、という意味だ。今、突然、従順が「重大事」になった。〔皮肉に笑う〕
E: 真実のみを述べよ! 真実でないことは一つとして言ってはならぬ! 福いなる童貞に代わって述べよ!
J: 全く突然に、彼らは全ての人々に従うことを要求している。そうすることが容易いからだ!
E: 真実を言え、イスカリオテのユダ! お前達悪霊が言いたいことを言ってはならぬ。…の聖名によりて!
J: 私が今言ったことは天の承認のあることだ。我々は憎むべき真実を言うことを強いられている。現在、現代的な展望を持った人々、また多くの金やその類を持った人々にとっては、従うことは、ある意味で、非常に容易なことになっている。それで、今になって「従順」は、砲弾のように地平線を越え、突進しつつ戻って来たのだ。以前はもはやニュースとはならなかったものが、今や再びトップニュースとなったのだ!
E: 福いなる童貞に代わって、真実を、真実のみを述べよ!
J: それは我々を喜ばせる。そのような状態が長く続くように! しかし天上の彼らはそれを不興をもって見ている。彼らには他の計画がある。それは彼らが真に望むもの、現在の教会の状態とは違ったものだ。しかし福音は成就されねばならぬ。──それは成就されねばならぬ。彼らの全ての計画は、大災害の最中であろうと、国同士の間に置かれた大きな困難と紛争の最中にあろうと、実現されねばならぬ。
E: 真実を語れ! 福いなる童貞に代わりて真実を述べ続けよ!
J: 全ての人々が問題を司教に照会する。司教が彼らの問題を教皇に照会できない時にだ。何故ならば、彼らに答えるのは教皇ではないからだ。私は、これでほとんど話し終わったと思う。
E: 福いなる童貞に代わりて真実を述べよ! イスカリオテのユダ、彼女がお前を通じて語りたいと望まれることを述べよ! 語り続けよ! 福いなる童貞に代わりて、お前が述べねばならぬ真実を、そして真実のみを述べよ!
典 礼
J: 8月の14日(1975年)にアカボルは、ミサについて、またミサの始めに再び導入されねばならない灌水式について、語ることを強制された。それは真実だ。それは本当のことだ。その時我々は教会から逃げることを余儀なくされた。
E: 真実を述べよ、イスカリオテのユダ! 福いなる童貞に代わりて真実を述べよ!
J: それがなければ、我々は教会の中にいることができる。以前の習慣のように、司祭が教会の端から端まで全ての人々に聖水を振りかければ、尚良い。それは我々を人々からも逃げさせる [43]
E: 真実を語れ! 福いなる童貞に代わりて全真実を語り、真実以外は何一つ言ってはならぬ!
J: 我々のもう一つの仕事は、会衆の気を散らすことだ。司祭が聖水を持って聖堂に来る時、人々はよく祈ることができる [44] 。更に、これは黒魔術の思念と力をも追い払う [45]
E: 福いなる童貞に代わりて真実を述べよ!
J: 灌水式、33回の十字の印、3回の「ああ、主よ、われは値なき者なり」、そして最後に、ミサの終わりに、「大天使聖ミカエル」と「元后、憐れみ深き御母」の祈り。これらが確実に戻されなければならない。これらを抑制したのは我々であり、またどちらにせよ、我々の掌中にある枢機卿達によるものだ。
E: 福いなる童貞に代わりて真実を述べ続けよ!
トリエント・ミサか [46] 新しい「ミサ司式」か
J: 更にまた、上のあそこの彼らは〔上を指差す〕、ドイツ語の(あるいはフランス語の、英語の──つまり「母国語」の)ミサよりも、また新しいミサよりも、トリエント・ミサの方を好む。何故なら、後者は正確な翻訳ができないからだ。
E: お前はラテン語でのトリエント・ミサのことを言っているのか? 真実を述べよ、イスカリオテのユダ。福いなる童貞に代わりて真実のみを述べよ!
J: 典礼文はドイツ語に訳すことが困難だ [48] 。それ故、これによってミサの中に不正確な言葉が──天主からの恵みを減らす不正確な言葉が──入ることになった。キリストが望むような形で正確に言われることのない全ての言葉が、天主からの恵みを減らす。このことは聖変化の言葉に当てはまる。聖変化の言葉は完全に正しい形で言われなければならない。一つの単語さえ変えられてはならない。全てが厳密に正しく言われねばならない。お前は、我々の世界(地獄)においてどれほどあらゆることが秩序立てられているか知っているか? しかし今や教会においては、我々の世界ほどの秩序さえない。
E: 福いなる童貞に代わりて真実を、真実のみを語れ!
カトリックの祝祭日
J: 祝祭日... カトリックの祝祭日! 全てが変えられ、乱雑に置かれている。日にちは変えられ、人々はもはやそれらに気づくことができない。以前は、人々はそれらにあらかじめ気づくことができた。「さあ、これこれの祝日が近づいて来た... さあ... 」〔皮肉な笑い〕
E: 福いなる童貞に代わりて真実を述べよ!
J: しかし今は、人々はこれらの祝祭日がいつ来るのか──日にちも、どの祝祭日が固定的なものであるかも──もはや知らない。この損失は、他の者達にとってはいざ知らず、我々にとっては大いなる勝利だ。何故なら、以前は、人は祝祭日の来る何週も前から、あらかじめ自分自身を用意したものだからだ。しかし今は、彼らはそれができないか、稀にそうするだけだ。彼らの心にもはや祝祭日の日にちが刻まれていないからだ。また、カレンダーごとに、それらが違った日になっているからだ。彼らはどのように自分自身を準備するのか? 教会に来て、ある日ある方法で司教や司祭と共にある祝祭日を祝うということと、その後に、彼ら自身の家で、古い日にちに従い、全てを彼ら自身によって古い祝祭日を祝うということは、同じではない。
E: 福いなる童貞に代わりて真実を述べよ!
J: しかし我々を信ぜよ。我々の地獄においてさえ、有効なのは古い祝祭日だ。それらは、お前達がいる場所(地上)においてよりも、我々がいる場所においての方がより大きな影響力を持っている。お前達はこのことをカルメル山の聖母の記念日のことから既によく知っている筈だ。
E: 福いなる童貞に代わりて真実を、真実のみを述べよ!
諸聖人の祭日 - 万霊節(死者の日)- 煉獄の霊魂達
J: 全ての祝祭日がそれぞれ適切な場所に回復されなければならない。そして「死者の日」、ここにも馬鹿げた物語がある!
E: 福いなる童貞に代わりて真実を述べよ!
J: 煉獄の霊魂達は酷く不利な立場にある。昔は、共同墓地は人々によってよく訪問されたものだ。そこで捧げられた全ての祈りが一つの免償を得、それによって一つの霊魂が真っ直ぐ天国に行くことができた。しかし今はもうそんなことは行なわれない。つまり、一部の人達はまだ共同墓地に行くが、彼らはそこで祈るようにと励まされていない。それは聖職者達によって取り払われた。聖職者達は、「これらの免償はもう適用されない。ただ『諸聖人の祭日』におけるものだけ適用される」と言う。お前達は今、このただ一つの、たった一つの免償だけで、聖なる霊魂達がどうなると期待しているのか?
ああ! 昔は、何千もの、何万もの霊魂が天国に上げられていたものだ。いや、何百万かも知れない。... しかし今はどうだ? 今、彼らのためには酷い損失がある。彼らは助けを求めているが、誰も来ない。そして、今、我々は再びその祭日を迎えようとしている〔このエクソシズムが行なわれたのは10月31日である〕。全ての者が今話したこと全てを伝えられなければならない。しかしながら、ついでに言えば、彼らはこれを信じないだろう。〔邪悪な喜びでゲラゲラと笑う〕
E: 福いなる童貞に代わりて真実を述べよ!
J: それは難しいことではなかった。ただ共同墓地に行き、「主よ、永遠の安息を彼らに与え給え」、そして時々「主祷文」、あるいは他の心に浮かぶ祈りを唱えながら聖水を振りかける。それでいいことだった。そのような祈りが正しい意向で唱えられる時、それぞれの祈りで一つの霊魂が実際に煉獄から解放された。しかし今では、このことを信じている善人でさえ、「それはもう有効ではないので、あなたはこれこれの免償を得ることはできません」などと言われるために、誤謬に導かれる! 当然ながら、これは地獄にいる我々にとっては素晴らしいことだ。〔邪悪な喜びで笑う〕
E: 福いなる童貞に代わりてのみ語れ! 真実でないことは何一つ語らず、全ての真実を語れ!
J: この大きな免償、諸聖人の祭日に与えられる免償(現代的な司祭達に依れば、現在ではこの日に一つの免償しか与えられないとされている)を得るために、多くの人々は、6回の「主祷文」その他を唱えるのはあまりに長過ぎる、と感じている。またもう一つのことを言えば、この免償がたった一つの霊魂のために限られているが故に、他のどんな霊魂もほとんど解放されることがない。天主自身──上のあそこの御者〔上を指差す〕──は、人々の思いをこの事柄の上に戻すだろう。しかし疑いもなく、多くの者にとってはそれはあまりにも遅過ぎることだろう。あまりに遅過ぎる。
私は更に、このことはお前達が考えるより一般の祝祭日とも多くの関係があるということを言わねばならない。最近ではそれらの祝祭日の──特に聖母の祝祭日の──重要性が失われている。12月8日は変わらなかった。しかしそれが何だろう。大きな祝祭日は他にもたくさんある。例を挙げれば、カルメル山の聖母の記念日、そして他の幾つかの大きな祝祭日と記念日だ。人々がこれらの日に彼らの人生における導きを求めて聖母の御助けを乞うためにミサに行くことがなければ、彼らの受ける恵みは少ない。彼らにとってこれは大いなる損失だ。しかし我々にとっては途方もない利益となる。
E: 福いなる童貞に代わりてのみ述べよ! 真実のみを述べよ!
司祭職と霊魂の世話
司祭と恩寵
J: 私がこれを言うことを強いられることさえなかったら! 私はそれを言いたくない!
E: …の聖名によりて、続けよ! 全真実を語れ!
J: 私は語ることをすっかりやめたい!
E: 続けよ! 福いなる童貞に代わりて述べよ! …の聖名によりて、真実のみを述べよ!
J: ドイツの諺が言うところの「流れに逆らって泳ぐ者だけが清い水に至る」ということは全く正しい。多くの司祭達は間もなく──彼らはそれに気づいてさえいないが──いわば汚染された不潔で胸くそが悪くなるような流れの中で泳ぐようになるだろう。彼らはその汚物で自分の体を洗い、そして更に悪いことに彼らの心までそれで洗い、深みに深みにと入って行くだろう。
流れに逆らって泳ぐことは確かに難しい。しかしそうしてこそ清い水に至ることができる。清い水とは、上の彼らが人に受けさせたがっている恩寵のようにも思える。しかし現在においては、それは霊魂そのものをさえ意味する。もはや正しい言い方でミサを捧げなくなった司祭達の立てるミサは天主の恵みをあまり多くは引き寄せないが故に、霊魂はトリエント・ミサあるいはラテン・ミサ [49] を通じてより多く救われる。しかしそのような(前者のような)教会には我々がいるから、そこではもはや天主の恵みは多くはない。我々はそこで踊り回っている。そして間もなく、そこでの我々の数は人々の数を上回るだろう。
E: 福いなる童貞に代わりて、…の聖名によりて、真実を述べよ!
J: 我々は間もなく、教会に信者の座る場所がなくなってしまうほどの多数でもって、そこで踊り回ることになるだろう。〔邪悪な喜びで皮肉に笑う〕
E: 福いなる童貞に代わりて真実を述べよ!
J: 我々は、全ての人間の各々に2から3(の悪霊)を、あるいはその人間が普通より信心深ければそれ以上(の悪霊)を、配備することができる。〔邪悪な喜びで笑う〕
E: 真実を語れ! そして真実以外は一つとして言ってはならぬ!
内陣と説教壇に居る女性
J: そしてこの「顔と顔とを見合わせて」の朗読! これは我々にとって途方もない利益だ。そして女達が出て来て聖堂の前の方や内陣の中を練り歩けば、更に大きな利益だ。〔邪悪な喜びの笑い〕
E: 主イエズスの聖名によりて真実を語れ、イスカリオテのユダ!
J: 女達が前の方にいる時、次に起こることは、一部の信心深い者達(男と女の両方)が、祈ることが好きな信心深い者達でさえ、祈る代わりに「彼女は何を着てるのか? あの帽子は彼女に似合うか? 彼女は最近美容院に行ったのか?」などと考え始めることだ。〔邪悪な喜びで大声で笑う〕
E: 至聖三位の聖名によりて、真実を述べよ!
J:「彼女の靴は最新の流行のものか? その靴は前の靴より彼女の背を2〜3インチ高くしているか? 彼女がはいているのは暗い色のストッキングか? それとも明るい色のものか?」〔爆笑する〕
E: ユダ、福いなる童貞に代わりて真実を言い、そして真実のみを言え!
J:「彼女のスリップの裾のレースがはみ出しているんじゃない?」〔嘲笑う〕
E: 今より、福いなる童貞がお前に語らせたいことだけを口にせよ! それのみを語り、それ以外のことは全く禁ずる! お前が今言ったことはお前達(悪霊達)から来たものだ!
J: 私は、ある意味、それを言うようにと強いられたのだ... 私は更に続けなければならず、また、それは実際そのようなものである、と言わなければならない。彼らはそのようなことを考え、そしてとりわけその女の顔に目が行くものだ [51] 。これは明らかなことだ。初めの頃は女はベールを被っていた。しかしそれはもうずいぶん前のことだ。しかしながら、たとえ現在女達がベールを被らないことを許されていたとしても、聖堂の内陣に入ることはすべきことではないのだ [52] 。教皇と上の彼らは〔上を指差す〕そのようなことは望んでいない。
E: 福いなる童貞に代わりて真実を告げ、真実のみを告げよ!
J: 最悪なのは、女が聖体を配るよう任命される時だ。その時、天からの祝福も恵みもほとんどない。それらは奉献されていない手であり、女の手だ。いや、私はこのことを厳密に言いたい。つまり、それらが女の手であるということ自体にはさほどの重要性はない。しかしそれは奉献されていない手だ。キリストは司祭職のために男を、男だけを選んだ。女ではない [53] 。しかしこれはプライドの問題なのだ。プライド。天使達の原罪となったところのものだ [54]
E: 福いなる童貞の聖名によりて、またそれに代わりて、真実を語り続けよ!
J: それはこんな感じだ。これらの女達は人々の前で注目され、天の働きに加わることができるのが誇りなのだ。しかし我を信ぜよ。司祭達は、現代的な司祭でさえ、このようなこと全てがゴミのように捨てられ、また彼らが彼らの理論とスマートな新しさの全てと共にあって、しかし全く明らかに彼らがどこにも向かっていないということを理解するようになるだろう。しかし彼らは自分達が辿って来た道に背を向けたくない。そして彼らは、自分達がもはや人々を喜ばせる物事を組織するための方法を見出せなくなる地点に来ようとしている。それが、彼らが内陣にまで女性を連れて行きたい理由だ。それによって彼らは、彼らの教会が三分の一しか埋まらなくなって以来、再び人々が戻って来るチャンスを手にすることができるというわけだ。〔満足げな笑い声〕
E: イスカリオテのユダ。福いなる童貞に代わりて語り続けよ! しかし真実のみを語れ!
J: 遠からず、彼らは実際プロテスタントにより近くなるだろう。実のところ、プロテスタントは現代のカトリック教会よりも幾つかの点ではむしろ良い。
E: 福いなる童貞に代わりて真実を述べよ!
J: プロテスタント達は他のことは何も知らない。私は真実を言っている。彼らは他のことは何も知らない。何故なら、これらのことは半ばプロテスタントだからだ。しかし... カトリック教徒達は!
E: 福いなる童貞に代わりて、イスカリオテのユダ、真実を述べ続けよ!
J: 当然ながら、間もなくプロテスタントの方が現代的なカトリシズムよりも天主に近くなるだろう。今言ったように、彼らは他の事は何も知らないからだ。私は、彼らはある仕方で天主についてよく知っている、と付け加えたい。知的な者達は、カトリック教会が──それは良い教会だ、ご存知の通り──真の教会であり、多くの人々がそれに改宗させられ得る、と思うかも知れない。しかし現在のようなカトリック教会の状態では、私は──あるいはむしろ、地獄の我々全ては──プロテスタントの方が間もなくより良い位置に付くだろう、と言う。
E: 福いなる童貞に代わりて真実を、真実のみを述べ続けよ!
J: そして次に──説教! 説教が女達によって行なわれている場所が幾つかある。上の彼〔上を指差す〕はそのどれも望んでいない。
E: 福いなる童貞に代わりて真実を、真実のみを述べ続けよ!
J: 天主は説教が奉献された者によって為されるのを望んでいる。何故なら、説教は信者に最も大きな影響を与えるものだからだ。人々が彼女の説教に注意を払うかどうかとは関わりなく、彼女が奉献されていないが故に、その説教は司祭の説教には遠く及ばない。それだけで説教する女性は既にして良いものではない。女性が真面目な気持ちで説教するなどということはあり得ない。何故なら、もし彼女が善き人で真面目な心を持っているなら、彼女は全く説教などしていないだろうからだ。
キリストに倣うこと、善徳、十字架と聖人達。これらの主題はミサの中で、あるいは説教の中で、今やほとんど触れられることがない。奉献されている人である司祭でさえ、もはや大多数の場所では、それらについて説教しない。
E: 福いなる童貞に代わりて、真実を述べ続けよ! そして真実以外のことは一言さえ言ってはならぬ!
J: その女が説教の主題の深みに入ることがないなら、どうして他の人々がそこから利益を引き出すことができるだろうか? 正にそのほとんどの場合、人々は彼女の説教から非常に変わった考えをあれこれ受け取るかも知れない。確かにそれは常にではないかも知れない。しかし、何がどうあれ、そのような説教は全く価値のないものである。
対面式の祭壇
J: 対面式の祭壇は良いものではない。特に女達にとっては。それはさっき私が内陣の中に立つ女達のことで言ったようなことと似ている。今度はその女達が自分自身に向かって言うわけだ。「彼はどんなヘアースタイルかしら? それはよく梳かれているかしら? 彼は最近理容室に行ったのかしら? あら! 今日はカールしてる... この前とは違うわ。彼は綺麗な歯をしてるわ!」〔皮肉に笑う〕
E: 福いなる童貞の聖名によりて真実を、真実のみを述べ続けよ!
J:「彼は祭服がとてもよく似合うわね。彼はまだ全く若いわ。彼が司祭だなんて残念だわ」〔上機嫌に笑う〕... 等々。しかしもし彼が背面式でミサを捧げていたなら、彼女にそのような思いは浮かばなかっただろう。かつて人々が祈った後に司祭が会衆の方に振り向いていた時には、そんな問題はなかったのだ。これが、天主が「ミサは人々に背を向けて──別言すれば、正しい方向で──捧げられねばならない」とよく知っているその理由だ。
E: 福いなる童貞の命令によりて、真実を述べよ! しかし真実以外は口にすることなく、続けよ!
聖櫃はそこに住む彼に相応しいものでなければならない
J: 聖櫃は中央に置かれなければならない。もし人が現代の教会に入った時に最初にしなければならないことが「聖櫃を探す」ということであれば、それは何を意味するか? それはその者が、聖櫃は前方にあるのか、後方にあるのか、側面にあるのか、知らないということだ。今や多くの場所で聖櫃は人に質問させるのだ。「それはフォックステリアか何かですか?」〔邪悪な喜びで大声で笑う〕
E: 福いなる童貞の命令によって、真実を語り、真実のみを語れ、イスカリオテのユダ!
J: ... あるいは「それは金庫か何かですか?」だ。〔笑いをこらえることができない〕
E: 福いなる童貞の命令によって、真実を語り、真実のみを語れ、イスカリオテのユダ!
J: 聖櫃、一応聖櫃と呼べるものを、鉄で作る多くの者達がいる。それ(鉄)は人々が跨いだり踏んだりする鉄道線路のためには十分良いだろう。
E: 真実を語り、真実以外は語るな。…の聖名によりて ...
J: しかし聖櫃は... いいか?... 金箔を張られなければならない! 私は、それが金でできていようとも最も貴重な宝石でできていようとも、その中に置かれるもの(聖体)を含むところのそれ(聖櫃)のためには十分良いものではない、と言わなければならない。これ(金箔を張られた聖櫃)でもなお、それがその内に含むもの(聖体)の価値からは遠く及ばない。人々が作っている教会や聖櫃の有り様は恥ずべきものだ。下にいる我々でさえ、そう思わずにはいられない。
E: 真実を述べよ! 笑うのをやめよ! 福いなる童貞の命令によりて真実を述べよ!
聖なる場所でのダンス
J: それから、ミサを夕方に行ない、あるいは朝に行ない、そしてその後でそこでダンスをする教会がある! 私はダンスの隣りに性的なものを置き、それに言及しなければならない。何故なら、ダンスのあるところにはほとんどの場合、性的なものもまたあるからだ。行ないによるか、思いによるかを問わず、罪が犯されないダンスは一つとしてない、と言っていいだろう。もし私が「彼らはダンスが終わった後で罪を犯す」と言うことができれば、それはまだマシな方だろう。
ダンスは全く我々だけが考え出したことだ。しかし今やカトリックの司祭達さえお祭り騒ぎとダンスを推奨している。彼らは人々を再び教会に来させるために、人々にダンスを提供することが必要なのだ。それ故、今日の風潮は、ビール、ダンス、そしてオーケストラだ。〔再び大声で笑う〕
E: …の聖名によりて真実を、真実のみを述べよ!
J: 状況はそんなところに向かいつつある。あるいはむしろ、既にそのような地点に達している。そこでは、ある司祭達は──彼らはまだ自分達のことをカトリックだと言っている。しかしもう長いことそうではない──彼らの教会の中に或る教派の人達、たとえばペンテコステ派の人達などを招き入れようと手配している。その者達に教会でナンセンスを言わせるためだ。それ故、そこで勝利を収めるのは聖霊ではなく、我々だ。また、ある程度は黒魔術の力だ。それで、人々はもう西と東の違いも分からないほど盲目になっている。当然、我々は収穫を得るためには待つだけでいい。これが、今の我々が手にしている司祭達だ。ミサの本質的な部分である聖変化さえ、間もなく行なわれなくなるだろう。本質的な部分がだ。──言っていることが分かるか?〔吐息をつく〕
E: 福いなる童貞の聖名によりて、真実を語り続けよ! しかし真実以外は何も口にすることなく、福いなる童貞の命令によりて、真実だけを述べよ!
宗教美術
J: そうそう、福いなる童貞! これもだ! 人々は彼女の像を正に隅っこに置き、更に嬉しいことに後ろにまで押し込める。それがほとんど人の目に入ることができないようにだ。そしてそれはしばしば安っぽいチッポケなマドンナだ(お前がそれをマドンナだと判別できればの話だが)。現代的な像においてはしばしば、それが天に〔上を指差す〕おられる誰かを表わしているのか、それともギャングの情婦を表わしているのか、見分けるのが難しい。
E: 福いなる童貞の命令によって、真実を語れ!
J: そこに幸いなる童貞の像がまだある時、人々は一層祈りに引かれる。そういうわけで上の彼らは...
E: 続けよ! 福いなる童貞の命令により、真実を語れ! 彼女がお前に言うようにと命ずる全てのことを語れ!
J: ... どんな場合でも、良き芸術作品、人々に語りかける良い美しい像が置かれることを望んでいる。聖櫃は、可能ならば豪華に金箔を施し、教会の全体と調和するように設置されなければならない。それは犬小屋のようであってはならならず──私はこう言うのが嬉しい──豚小屋のようであってはならない。〔皮肉に笑う〕
E: 福いなる童貞が命ずる通りに真実を語れ! 地獄から来たようなものの言い方をするな!
J: 確かにそれは地獄から来た言い方だ。しかし私はそう言うことを許されたのだ。〔重く苦しげに呼吸する〕
E: 真実を語り続けよ! 福いなる童貞がお前に言うようにと命ずることを全て述べよ! 語り続けよ!
原註
[37] 祈りだけではなく、犠牲がなければならない。天主の犠牲(真のミサ聖祭)と人間の犠牲(殉教でさえも)が。
管理人註
[管1] ここで思い出すのは、かつてパリ外国宣教会の司祭ヨゼフ・マリ-ジャック神父様が1969年に公布された手による聖体拝領についてのパウロ六世教皇様の教令『メモリアーレ・ドミニ』についてお書きになった『舌の上に受ける御聖体拝領の弁護』(1982年)です。神父様はその教令が持つ「内的矛盾」についてこう書いておられます。
急に文書は “調子” と、“文体” と、“内容” と、“思想” をさえ変えます。まるで、筆者が変わったかのように…。突如として、“真のパウロ六世” が、その考えを表明するのです。急に、断固たる権威をもって、また、明確な理由をもって彼は、いわば、最初の部分すべてに、反駁するのです。(…)
878年のルアン公会議以来、再び、あらたに “手” による聖体拝領は、教皇パウロ六世の聖座の権威をもって、厳かに禁じられたのです。ところで、教書 “メモリアーレ・ドミ” はこの結論をもって終わるはずであるのに、最後に数行の取り急ぎの “追伸” のような補遺がついています。(…)力強く確認されたことが、今度は破棄され、断乎として拒否されたことが、今度は受容され、パウロ六世の明確な “ハイはハイ、イイエはイイエ” の後に、小さな加筆。
私達がここで自らに言わなければならないのは、次の言葉ではないでしょうか。「その徴候だけで、私達のためには十分でなければならない
私達は「教会」の言うことをあまりに良心的に見たいがために──「教会」の中に(しかもその全くの中心部に)「完全な悪」が実際に立ち働いているなどとは仮定すらしたくないために──「ただ信じたくない」ために──『メモリアーレ・ドミニ』の多少奇妙な情景を見ても、「まあ、少し奇妙だが、基本と適用との間で物事のこんな置き方もあるのかな」ぐらいについ思ってしまうのはないでしょうか。
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