1977年6月18日
E = エクソシスト
B = ベルゼブブ
ヨハネ二十三世と公会議 [26]
E: いと福いなる童貞の聖名によりて、真実を語れ!
B: 教皇ヨハネ二十三世は1958年に登位した。この教皇は特に頭が良いというわけでもなく、特に教養のある人物でもなかった。我々はこの話題はなるベくなら話したくない。
E: しかし、今彼は天国におられるのか?
B: ああ、彼女〔上を指差す〕は、我々が彼について、そしてあの忌わしい公会議について、何か話すようにと望んでいる。だが、それは正に我々が話したくないことだ。お前達も公会議のことなど口に出さずにただ普通にさえしていれば、どこででももっと楽にしていられるのに。
E: …の聖名によりて、いと福いなる童貞が望んでおられることだけを話せ!
B: ああ、彼女はそのことについてあまりにも多くを望んでいる... あまりにも多くをだ!〔ため息〕
E: 彼女が望んでおられることを話せ!
B: 1958年、ヨハネ二十三世教皇が就任した。いわば緊急措置であったが、そこへ彼が選ばれたわけだ。彼は敬虔で正しい考え方を持っていたが [27] 、しかし物事は彼が予見した通りには必ずしも進まなかった。いずれにせよ、彼が公会議を召集したということ、そしてそんなことをしなかった方が良かっただろうということに変りはない。
E: 教皇が公会議を召集しなかった方が良かったとは、どういう観点から言うのか?
B: 上のあそこの観点からだ。〔上を指差す〕
E: 真実を語れ!
B: 言いたくない。我々は説教するつもりなど毛頭ない。
E: 下からの〔下を指差す〕観点からはどうだったのか?
B: 結構! それはこういう次第だった。上のあそこ[28] では、最終的には、赤ん坊が風呂の湯もろとも投げ捨てられることになるとは考えてもいなかった。上のあそこの彼らはそんなことは望んでいなかった。しかし状況が現在このようなものになってしまったからには、公会議はやはり召集しなかった方が良かったのだ [29] 。刷新の必要がいくらかあったのは事実だ。しかし現状を見ればわかる通り、赤ん坊は風呂桶から完全に投げ出され、お湯は流れ出し──悪魔はその行き先を知っている──桶の中に残ったのは、中にいた赤ん坊の汚物とゴミばかりである。... しなければ良かったのだ。
E:「赤ん坊」という言葉で、お前は聖なる教会のことを言っているのか?
B: そうだ、教会と公会議のことだ。公会議については、非常に大きな過ちが犯された。それはつまり、ヨハネ教皇はもっともな理由なくして…〔途切れる〕…と言ったのではないということだ。今でさえ、彼がその結果がどんなものかを知ったら、彼は墓の中で悶え苦しむだろう。
E: 彼は知らないのか?
B: もちろん知っている。彼は既に臨終のベッドにある時、それがあまり賢明でなかったことに気づいた。しかしあまりにも遅過ぎた。その公会譲がそれほど嘆かわしく、破壊的で、悲劇的で、恐ろしい結果に終わるなどとはわからなかったのだ。自分では正しいことをしていると思っていた。善意でしたことなのだ。彼は自分が教会の最も偉大な善のためにあらゆることを行なっている、と信じていた。彼は刷新の必要などほとんどないことまでも刷新することを望んだ。
あの枢機卿ら、あの枢機卿のふりをした詐欺師ら、あの悪の枢機卿らが、後になって彼の手から王笏をひったくり、全てをこのひどい状態に追い込むなどと、彼は知り得ただろうか? そんなことは事前にわかるものか? 彼は善良な信仰のもとに行動した。だから彼は天国に到達した。とにかく彼は救われた。
E: …の聖名によりて、真実を、真実のみを語れ!
B: 彼ヨハネ二十三世は謙遜で正しい人ではあったが、それほど才能に恵まれていたとは言えない。あの頃は教会を治め、騙されることのないように教皇の権威を保つすべを心得ている才能溢れた人物を教皇に立てる必要があった。しかし彼がそれを理解した時はもう遅過ぎた [30] 。しかし全ては計画されていたことである。それは上のあそこの彼ら〔上を指差す〕の計画であった。なぜならば、聖書にあることは全て成就されなければならないからである [31] 。全ては計画のうちにあった。しかしそれでも上の彼らにとって現在の状況は嘆かわしい光景である。
E: 聖父と…の聖名によりて!
B: 彼は臨終のベッドの上でそのことで非常に苦しみ、親友、あるいは自分に忠実だと彼が思っていた人間達を呼び寄せた。そして彼は彼らに、自分は世界に叫びたい、と言った。「私がこの公会議を召集さえしなかったならば!」と。
その時になって彼は公会議の恐ろしい結果を理解したものの、しかしそれ以上何もできず、臨終のベッドにあっては何も阻止することはできなかったので、彼が言うことができたのは「神よ、私を憐れんで下さい」だけだった。他の者ら、いわゆる天国が、このことを世界に、そして次の教皇にも知らせることを期待しよう。
E: …の聖名によりて、真実を、そしていと福いなる童貞が望まれることだけを話せ!
B: しかし、おそらくその信頼に足る人々はこう思っただろう、「彼はもう臨終が近い。理性が完全ではないのだろう」と。いったん公会議が召集されてしまってからでは、全開にしてもまた閉めれば済む蛇口ではあるまいし、「今から中止します」などとは、誰も言えるものではない。その公会議にはもう、舵をとるため、また進行を緩めるために掴むべき把っ手がなかった。事態は誰にもどうすることもできないほど進行していた [32] 。舵は壊れていた。教皇ヨハネ二十三世が死去した時には、既に壊れていた。
もちろん我々(悪霊)は、そのクーデターに加わっていた。どこででも何とか優勢を勝ちとろうとしていた。当然、我々悪霊はこの洪水を止める蛇ロがもう閉められることのないように最大限の努力をした。こういう訳で、お前達には今、致命的、破局的、醜悪な不一致、及び悪霊が作り出すありとあらゆることが起こっているわけだ。
ヨハネ教皇が信頼していた者達はこう言っていた。「たぶん彼は動脈硬化か何かで、もう自分が何を言っているのかも、よくわかっていないのだ」と。信頼されていた者達はお互いの間でこう言っていた。「このことは絶対、他に知られてはならない。事態は非常に進展していて、ありとあらゆることが進められており、誰も途中で止めるなどできないのだ」。
E: …の聖名によりて!
B: それから教皇パウロ六世、教養があり才能に恵まれた者が現われた。しかし、前任者がスタートさせたことを遅らせたり流れを逆にしたくても、彼には何ができたというのか? その上パウロ六世自身、初めに間違いを犯した。彼はヨハネ二十三世が臨終の時に言ったことを知らなかった。後になってそれを知ったが、その時にはもう遅過ぎた。とにかく彼はこれに対しては何も行動せず、止めようとせず、更に彼はこの惨事に輪をかけるようなことをした [33]
彼の教皇在位は今で14年になるが、この14年間は彼にとって失望の日々だった。公会議が破壊的な性質のものであることはすぐに理解したが、遅過ぎた [34] 。自分の犯した過失を悟ったのはずっと以前、何年も前だが、しかしそれでも遅過ぎた。以前、私の前に他の悪霊達が言うことを強いられたように、彼は現在、恐ろしい道、殉教者の道を辿っていて、そのため、現在のこの混沌とした状況の中でもはや何もできなくなっているのだ。
人々はいつもこう言う、それは聖霊だ。聖霊に違いないと [35] 。それで、たとえば偽教皇の頭の中に、それがどんな動機によるのであれ、外交官やあらゆる種頼の政治家と謁見するという考えが浮かび、それを実行して、それがまた彼の枢機卿らを喜ばせるといったような時でさえ、世間は、少なくとも教皇に忠実な者であると自称する世間は、またもやこう言うのだ、聖霊が働いている! これは聖霊に違いない! と [管1] 。このように大多数の人々は、聖霊はもはやこのようなことには何の関わりもないということが分っていない。ああ、もうこれ以上話したくない!
E: 話したくないのか? ベルゼブルよ、しかし、話さなければならないことは全部言ってしまったのか? 公会講は聖霊に導かれていたのか、そうでないのか?
B: 初めの頃は、まだ時折は聖霊が働いていたが、しかしその頃でさえ、常にそうだったわけではない [36]
天使達についての証言
準備の祈り: 諸聖人の連祷〔この祈りに悪霊らは反応した〕、教皇レオ十三世の悪霊祓いの祈り〔立会人全員がドイツ語で唱えた〕
E: 我は汝に命ずる。至聖なる三位一体、いと福いなる童貞マリアの聖名によりて、また聖父と聖子と聖霊、そして今日我々がその祝日を祝っている聖マリアの汚れなき聖心の聖名によりて!
B: お前達は全員、信徳唱、望徳唱、愛徳唱、痛悔の祈りを唱えなければならない。お前達は祈らなければならない。今日は我々は何も言いたくない。
E: …の聖名によりて、真実を、真実のみを語れ。…の聖名によりて!
B: 我々は何も言いたくない。話すわけにはいかない。ルシファーは我々が話すのを望んでいない。ルシファーは我々が彼女〔上を指差す〕の望んでいることを話すのを望んでいない...
E: しかし、いと福いなる童貞は望んでおられる...
B: しかしルシファーは上のあそこ〔上を指差す〕にいる彼女を憎んでいる。その偉大な婦人が自分の望むものを、またあの冠を戴いた頭の中で考えているものを手に入れたりすると、彼はいつも激しく怒り狂う。
E: いと福いなる童貞の聖名によりて、真実を語れ!
B: 彼女〔上を指差す〕はそこにいる。やはり彼女は偉大な権力を行使するだろう。今日が汚れなき聖心の祝日だからだ。[37]
E: いと福いなる童貞がそこにおられるのか?
B: そこにおられるなんてものじゃない! ほとんど私を押し潰さんばかりだ。彼女は今にも私ベルゼブルを漬してしまう! あの時、彼女だということに気づいていたら! あの時、彼女はまだ存在していなかった。しかし、彼女が生まれようとしている時... 我々はそれを見せられたのだ。
E: いと福いなる童貞の聖名によりて、真実を、真実のみを、そしていと福いなる童貞が望んでおられることだけを語れ!
B: 我々はそれを見せられた... 彼女がいつの日か偉大な共同贖罪者として現われるだろうと... 偉大な... 偉大な婦人として...
E: お前達が見せられたのは、汚れなき御宿りとしての彼女だったか?
B: 我々の荘重なる天使の威厳において、我々は自分達が彼女よりずっと上位であると... ずっと高い所にいると信じていた。それで、一人の例外的な女が我々より高い地位につくことなど許す気になれなかった。これが我々の墜落の、我々が下の方へ〔下を指差す〕突き落とされる墜落の強力な誘因となった。
E: いと福いなる童貞が汝に命じられることを話せ! …の聖名によりて!
B: 日毎に我々は憂鬱になっていった。このことは本来永遠の尺度で説明しなければならないことだが、しかし人間は日で数えるので、比喩的に、お前達の尺度に合わせて説明すれば、我々は日毎にますます憂鬱になり、威厳を失い、とうとうその頃はまだ小さくて重要ではなかったミカエル(大天使)と同じようなレベルになってしまった!... ああ! ミカエル、ミカエル!(この名前に対して)我々は狂わんばかりだ。あのミカエル、我々にとっては小さな取るに足りない天使だったあいつが、今ではあんな支配力を行使して、我々をほとんど押し潰さんばかりにしている。我々が失ったもののほとんどがミカエルの取り分となったのだ。
E: 今では大天使聖ミカエルが天使の中で最も偉大なのか?
B: ああ、そうだ! あの時からずっとそうだ。
E: 彼が天国におけるお前達の地位、そしてルシファーの地位を引き継いだのか?
B: あいつが、上のあそこ〔上を指差す〕の彼が望み命ずるままに天使の権威を世界中で行使できるよう、上のあそこ〔上を指差す〕の彼があいつに高い地位を与えることは、非常な必要なことだった。
E: …の聖名によりて、真実を語れ! 秘跡について話さなければならないのではないか?
B: 話すべきだが、ルシファーが承知しない。私は話してはいけないのだ。
E: ... 話せ! いと福いなる童貞が望まれることを話せ!
B: しかしそれではルシファーは私を虐待するだろう。私にとっては口をつぐんでいる方が良いのだ。
E: いと福いなる童貞は何を命じておられるのか?
B: 我々は彼女〔上を指差す〕の言うこと望むことを聞くのは絶対に嫌だ。その上彼女はいつもあまりにも多くを望み、いつも何かを望む。我々は下のあそこに留まっていなければならないのだから、彼女〔上を指差す〕も上のあそこにずっといればいいのだ。元の場所にいてもらっててくれ! 我々を説き伏せ、指図するためにいつも来るのをやめてもらってくれ!
E: しかし、お前達はこの世にもいるではないか。
B: その通りだ。しかし、その全てのために、その全てに拘わらず、この地上は我々にとっては腐った粗悪な場所なのだ。彼女は我々を説き伏せ、指図するためにいつも来るべきではない。
E: 至聖三位の聖名によりて、…の聖名によりて、いと福いなる童貞に代わって真実を語れ。そして、汝が言うべきことを言え!
B: 我々にとってはそれは忌々しいことだ... 我々はそれを話したくない。上のあそこの婦人〔上を指差す〕が望んでいることは我々の分野ではなく、我々の仕事でもない。彼女は我々の計画をぶち壊すために来るべきではない。
E: 話すよう求められていないことはしゃべるな! 祝された乙女が望まれること、それだけを話せ! …の聖名によりて!
B: 彼女はいつもこのような教会一点張りの考えしか持っていない... 私はそれをわざわざ大声で言うつもりなど全くない。しかしお前達は結局は、聖水と天の助けをもって私を窮地に追い込むのだろう。
E: 全くその通りだ。我らは聖水を使い、天の助けを借りる。…の聖名によりて、語れ!
B: 彼女は言っている... 我々には我慢の限界だが、彼女は今それを望んでいる! 彼女は、お前達が跪いて、まず「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」を三回唱え、次に「涙のロザリオ」[管2] を一回唱えることを望んでいる。
しかし我々は言う。お前達は祈るべきではない。お前達が祈れば祈るほど、お前達は我々を怒らせ、我々はますますお前達に挑むだろう。お前達がもし祈らないなら、別の言い方をすれば自分の意志を取るなら、お前達は最高に美しい人生を送れるだろう。
E: 我らは美しい人生など望んではいない。神の御旨を行ないたいのだ。
B: だが、そうすれば迫害があるのみだ。非常な不幸を味わうだけだ。
〔要求された祈り、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな.. 」三回と「涙のロザリオ」が一同によって唱えられる。〕
B: 我々ならそんなもの(「涙のロザリオ」のこと)なしでやっていける。...〔余談であるかのように〕本当は「涙」と言うより「血の涙」と言った方が良いのだ。しかし、お前達はただ「涙」と言うことができる。
E:「涙と血の涙のために」と言った方が良いのか?
B: 二つ言った方が良い...〔泣き出す〕...〔司祭の方を向いて〕お前のその手 [管3] をそこからどけてくれないか? 我々はそのような奉献された手など欲しくない。... そしてこれ以上の薔薇 [38] もだ!
聖なる霊魂 / 煉獄 / 免償
E: いと福いなる童貞聖マリアの聖名によりて、全ての聖人の聖名によりて、そして我々が保護を願う全ての守護の天使の聖名によりて... !
B: 煉獄の霊魂も祈ることはできる。他に何もできないとしても、彼らも祈ることはできる。彼らも教会のためにおどおどと何事かをつぶやくことができる [39] 。だから、もしお前達が彼らに何かを願うならば、彼らはそれをしなければならないし、また実際そうしている。彼らは、今何が危機に瀕しているかを知っている。彼らはそれについて多くのことを知っており、特に彼らのうちでも上の階層にいる者達は非常によく知っている。
E: それは、煉獄の霊魂達が私達を助けることを望んでいる、また彼ら自身が教会のために祈ることを望んでいるという意味か?
B: 最も下の階層にいる霊魂達は、我々からも見えるほど下の方におり──それは、言ってみれば煉獄にも多くの階層があるからだが──ほとんど何の力も持っていない。彼らはほとんどの場合、残酷なまでに苦しめられている。その階層にいる者らは、生前はひどい悪人で、多くの罪を犯していた場合、時に自分でも地獄にいるのか救われたのかわからないほどだ [40] 。正に底にいる者らに関しては、彼らに何が起こっているか我々にも見ることができる。彼らは「底の湖」と呼ばれるところにいる。
E: しかし彼らはいつかそこから出て来られるのだろう?
B: 数え切れないほどの祈りと犠牲によってだけだ。... 多くの者は世の終わりまでそこに留まることになる。しかし彼らはそれでも満足している。... 彼らは概して、神が自分達をそこに送ったことに関して、完全な服従のうちに神を賛美している。そこは、言ってみれば地獄と煉獄の境界である。
E: しかし、そこはあくまでも煉獄なのだろう?
B: 確かに煉獄ではある。しかしそこには特別に、本来なら地獄行きが当然であったのに、人々の自分自身を捧げ尽くす犠牲、数えきれない犠牲のおかげで、最後の瞬間に救われた霊魂達がいるのだ。 [41]
我々はこのことを言いたくない。お前達は煉獄の霊魂のために祈るべきではない。それは我々の気に入らないことだ。天の彼ら〔上を指差す〕はこう言っている──ユダが10月31日(1976年)に既に言わされたことだが──煉獄の霊魂達は今、ひどく落胆している」と。だが、彼らはそのまま苦しんでおればよいのだ! そのまま飢えておればよいのだ! 我々はそうしなければならない。お前達はもう彼らのために、祈ることによって教会から得られる免償を得てやる必要はない。彼らは飢えさせておけばいい! 我々は地獄でまったくひどい苦しみを味わわねばならないのだ。
E: …の聖名によりて、汝に問う。諸聖人祭と死者の日にはまだ Totes-Quoties(死者のための全免償)[42] は受けられるのか?
B: 一人の教皇が制定したものは、何であれ、他の教皇によって簡単に廃止されることはできない。それは例えば、お前達が古い靴を、汚れているとか、もう気に入らなくなったとかいう理由で靴屋に戻しに行くようなものではないのだ。
E: …の聖名によりて、真実を、真実のみを語れ!
B: お前達が誰かに贈りものをする時、非常に大きな贈り物をする時... 我々はこれを話したくない... 免償は、煉獄の哀れな霊魂達にとっては計り知れない価値を持った贈り物、他に並ぶもののないほどの宝なのだ。非常に大きな宝なのだ。 [43]
大きな贈り物が誰かに与えられて、その人が非常に喜び、歓喜し、その喜びの中に永遠に置かれ、その贈り物から何らかの利益を得ているならば、贈った人がやって来て、「あの贈り物を君にあげたのは私の失敗だった。もう君は十分それで遊んだね。さあ、私に返しておくれ」などとは言えないのだ。それはできない相談だ。受け取った方はこう答えるだろう。「嫌だ、冗談はやめてくれ! 君は私にくれた贈り物を私が返すとでも思っているのか?」。また、こうも言うだろう、「もう何年も経っているぞ。君が私にくれたのは十年以上も前のことではないか。私はそれをずっと持っているつもりだ。それだけだ。このことで裁判沙汰にはできないぞ。君は贈り物を私にくれる前に、よく考えるべきだったんだ」と。
免償もそれと同じことだ。上のあそこの彼らが私に言わせる、「一人の教皇が制定した免償は、他の教皇が完全に廃止してはならない」と。たとえば「愛するイエズスよ、彼らに永遠の安息を与えたまえ」とか「至聖なるイエズスの聖心よ、あなたをもっと愛せるようにして下さい」という祈願の後には「100日」とか「300日」とか「7年」等々の言葉が書かれているのだから、この理由だけによっても、一人の教皇がこれらの免償を廃止する十分な理由など、まずないのだ。
しかし、手短かに言えば、あれは教皇自身がもくろみ、命令したものではなかった。彼らが行なおうとしていたのは、免償全体の廃止だった [44] 。次のように言われていた。「人間はもはや300日だの、7年だの、全免償などという免償のことを理解していない。... それは煉獄に居る日数が300日短縮されるとか、そんなふうにしか理解していないのだ」。しかし、かつては、この300日というのが古代教会の慣わしに従った教会の罰、教会の償いを意味するのだ、ということを説明するのが、説教の主題になり得ていた。その日数は、大罪が償わなければならない期間、大罪を犯した者が教会に入る権利を失い、教会の入口に立っていなければならない期間を表わしている。かつて信者が行なっていた償い、かつて信者が耐え忍んでいた苦しみこそ、免償の意味するところなのだ。
付け加えてこれも言っておかなければならない。これら300日あるいは7年などといった免償 [45] というのは、以上のことにも拘わらず、罪人がかつて教会の償いを通して耐え忍ばなければならなかったものとはほとんど比較にもならないほどの、大きな価値を持つものだ。それは煉獄の霊魂、そして人間への、非常に貴重な賜物であるのだ。
E: Toties-Quoties(死者のための全免償)もそうなのか?
B: 全ての免償が非常に貴重な賜物である。そして一人の教皇が結んだものを他の教皇が解除するなどということは、彼にそうする明白な意志がない限り、できることではないのだ [46] 。この件に関しては確かにパウロ六世も関与していたが、しかしそれは彼一人だけではなく、他の人々もまた関与していたのである。むしろ教皇は他の人間達ほど深く関与してはいなかった。この件は、煉獄の霊魂達がもうこれ以上祈りによって利益を受けることができないようにするために、協議され、操作されたのだ。
E: 聖ピオ五世教皇のミサについても同様のことが言えるのか?
B: ああ! 話を聖ピオ五世教皇のミサに戻さないでくれ。
E: …の聖名によりて、真実を、真実のみを語れ!
B: ああ、如何に我々はいつも真実、真実だけを語らねばならないことか! 我々にとっては全く逃げ出したいほどの腐った話だ。お前達は全くいつもいつも真理とこのテの話に舞い戻るのだ!
E: 主イエズスは言われた──「私は真理であり、命である」 [47] 我々は真理とイエズスがおっしゃること、そして最も福いなる童貞がおっしゃることを求めているのだ。彼らの聖名によりて真理を、真理のみを言え!
秘 跡
B: 秘跡... 正に話題にしたくないことだ。できれば話したくない話題だ。これも事態は見ての通りだ。
E: …の聖名によりて、いと福いなる童貞の望まれることだけを話せ!
B: 我々が今これについて更に話さなければならないかどうかに関わらず、事態はすっかり見ての通りであって、お前達はもう何も手を打つことができない。
E: それはどうかな! いと福いなる童貞は何を望んでおられるのか? …の聖名によりて、真実を、真実のみを語れ!
B: お前達全員、家でじっとしておりさえすれば良かったものを! お前達は何をしたいのだ?
E: 我々は神のみ旨を行ないたいのだ。だから、福いなる童貞が秘跡について我々に伝えようとなさっていることを話せ。
告解の秘跡
E: 祝された乙女が語られることを言え。聖名によりて!
B: 告解の秘跡(Sacrament of Penance)... それは大したものである! あの共同回心式(collective absolutions)、あの悔俊の儀式(penitential ceremonies)は教皇から直接出たものではない。教皇はその種のものが真の告解の代わりになるとは言っていない。あれは我々(悪霊)の発明である。真の告解をしなければ人々は道徳的な良心を全て失うのだ。その結果、彼らはもっとたくさんの罪を犯すことになる。彼らはこう考える。「告解室で跪いてスータンを着た単なる年寄りと面と向かう必要がなければな... いちいち個人的な事を言わずに済むならな... その時、人生はもっと楽になるだろう。そうすればちょっとした過ちなら自分に許せるし、伴侶の頬に一回や二回恋愛感情がこもったキスをすることもずっと簡単になる筈だ。その時、人はもう『カラス』にそんなことを言う義務はないんだ」。上のあそこにいる彼らは「カラス」という言葉を使うのが好きではない。しかし我々にとっては、そういう場面においては彼らは汚いゴミであり、「カラス」なのだ。
人間はこうも考える。「今や我々は謙虚に跪いて、『実はこれこれの事をしました。同じ罪をまた繰り返しました。私は今迄この女性、つまり既婚女性と同棲していました』などと告白する必要はない」。彼らは単純にこう考える。「現在ではそれは許されていることだ」。あるいは「司祭達自身が、共同回心式に行きさえすれば全て許される、と言っている。それならばどうして、たくさん償いや謙遜の行ないが我々に課されなければならないのか。今や我々はいともたやすく罪を犯す。だから我々は、共同回心式で好きなように前の方か後ろの方で跪いて、司祭達から私達の罪の割り当て分に許しをもらえばいい。そうしたら許されるのだ。司祭がそう言うのだからそうだろう」。
司祭もまた、今日では共同回心式が本来の告解に代わる、などと言っている。これが実情だ。そういうわけだから、今や一般に、共同回心式の中で人は真の告解で為すべき事と同じ事をしている、と信じられている。そこでは今も五つか六つの「B」が行なわれていると信じられているのだ。例えば「Beten - Besinnen... 」ああ、我々はそれを言いたくない!
E:「Beten(祈り)- Besinnen(良心の糺明)- Bereuen(遷善の決意、痛悔)- Bekennen(告解)- Bussen(償い、贖罪)」
B: 償い(Bussen)。信者は罪の償いを実行しなければならないだけでなく、罪に応じた罰の償いもしなければならない。それは多くの免償を受けながら行なうことができる。以前教皇が与えた300日とか7年とかその他いろいろの免償を適用することができる。これらの免償は今日でも有効だ! しかし人々はこのことを知らない。もう一度全ての説教壇の高みからこのことが宣言されなければならない。
E: 御父の聖名によりて続けよ。祝された乙女の望まれることを言え!
B: 彼女〔上を指差す〕は、共同回心式は決して本来の告解に取って代わるものではないと言っている。我々が既に話してきた通りだ。告解に変わることは絶対にない... かけ離れている。真の、完全な、誠実な告解はその本来の正当な位置に戻されなければならない。このことが全ての説教壇の高みから教えられなければならない。
E: 聖名によりて... 祝された乙女が望まれることを語れ! 告解について言うべきことを言うのだ!
B: 人間は告解の為の準備をもっと十分にすべきである。準備にまるまる一時間を費やしたところで多過ぎるとは言えない。我々(悪霊)は特に告解に関しては極めて博識である。我々はあらゆる方法で人間を誘惑する。彼らが決して真の痛悔などしないようにと働いているのだ。
それがうまくいかず、人が痛悔の念を抱くようになってしまうと、我々はできれば悪霊をもう三匹 [48] 連れて来て、その人間が回心の希望を抱かぬように圧力をかける。そしてまた我々は、多くの仲間と一緒になって、その人間が自分の犯した罪の全部を完全には認識しないようにする。この目的のために、我々は特別な悪霊を配置している。
しかしこれらのステージが突破され、告白をしようとする者が聖霊によく祈り、自分の罪を認め、良心の糾明をし、自分の罪を後悔した場合──罪に対する悲しみが告白の主要な部分である──今度は我々は遷善の決心に働きかけ、その者が遷善の決心をしないよう、そして恩寵をたくさん受けることのないよう骨折りをする。人間は自分の中の支配的な過ちに関して遷善の決意をすれば、特別の恩寵を受けられる。彼は司祭に自分の中の支配的な過ちを告白しようと決意する。これは謙遜の行ないであり、謙遜のあるところには必ず一定の恵みが与えられる。謙遜のないところには恵みはない。
人間がまだ我々に捕まっておらず、最後の段階にまで辿り着き、遷善の決意をして告解室に入ってしまったら... その時我々は切り札の悪霊を連れて来て、最後の瞬間... 彼が罪の告白をする瞬間に... 彼が非常に大きな恐れに襲われて、たとえ小罪であってももう告白したくないと思ってしまうように仕向けるのだ。大罪については、告白しなければ間違いなく致命的である。もし大罪と知りつつ黙しているなら、聖性の状態になることは不可能である。また、小罪でも知りつつ告白しないならば、受けられる恩寵は僅かとなる。そう言う時には生活を変える、もしくは改めようという心の傾向はあまり見られない。
このようなことは特に熱心な信者、非常に熱心な信者に起こることだが、我々がそのような信者と共に最終の段階に達した時、そして告白しようとしている彼が告解室で跪き、自分の霊魂と良心に従って誠実に司祭に全てを話した時、もし彼が「神のみぞ知る罪」と付け加えて言えば、その告白は更に良い告白となる。[管4]
「神のみぞ知る」と付け加えて言った方が良いというのは、ある事が罪かどうかはっきりと確信が持てない時に、その過ちや罪のことで後になって自分を責める人達がいるからだ。しかし確信のない場合でも、彼らがそのような形で司祭に告白すると──これにはしばしば多くの謙遜が要求される──彼らの心は後でもっと落ち着くのだ。この謙遜と心の開放性を通して、彼らは更に多くの付加的恩寵を受けることができる。〔残念そうにつぶやく〕そういう告解は良い。告解の名に恥じないものだ。そのようにして告解者は、偉大な、また致命的な(悪霊達にとって)罪の許しを受けるのだ。「EGO TE ABSOLVO(私はあなたを許す)」... ああ、我々は如何にそれを憎んでいることか! 今日においても我々はそれを憎んでいる!
〔落ち着いた声で〕しかし我々はもはや個人的な罪の許しをそれほど恐れる必要はない。何故なら、今や共同回心式が告解に取って代わっており、告解の秘跡はもう以前ほど一般的ではないからだ。... ああ! しかしこんなことをまた言わせられた!
上のあそこの彼女〔上を指差す〕は言っている。全ての説教壇の高みから、真の告解を取り戻すことが必要であると宣言すべきである。悔悛の儀式(penitential ceremony)は告解ではない。悔悛の儀式は集団の意思表示、つまり全ては許され容赦されるという幻想を与える一種の場面設定(stage setting)なのだ。[管5]
(我々は言う)安心して帰りなさい。安心して主の御体を受けなさい。あなたがたの心は平和です [49] 。落ち着いていいですよ。
こういうことは上のあそこにいる彼らにとっては、とてつもない損失だ。そういうものの考え方は人間にとって非常に有害である。当然我々にとってはそうではないが。敬意が消失してゆく程に、我々はますます祝杯を挙げる。
原註
[28] 追注… ここでは「上のあそこ(up there)」という言葉が「天の彼ら」ではなく「地上の人達」、つまり教皇ヨハネ二十三世や他の人々のことを指しているのは明白である。またこの言葉は前出の「下の方(down below)」(地獄)という言い方に直接に関連をもつ。
[37] 「今日」とは六月十八日である。エクソシズムの以前の箇所にあった内容にも拘わらず、ここで悪霊に語ることを強いている天国が新しい典礼暦を無視していないことは明白である。聖マリアの汚れなき聖心の祝日は、以前は8月22日であったが、新しい典礼暦によって移動された。
[38] ロザリオのこと。
[42] 死者のための全免償である Toties-Quoties は、諸聖人祭と死者の日の二日間において、教会または墓地を訪問し、死者のための定められた祈りをすると与えらる。
[44] 実際のところ、免償については、もう教会の中で話されることがない。その結果、免償の付けられた祈りを唱える習慣は行なわれなくなってしまった。
管理人註
[管1] こういうことは今の教会にも、あまりに、あまりに多く見受けられます。
[管2] 涙のロザリオ(Rosary of Tears): 参照
[管3] しかしベルゼブブは「手」を意味する言葉として「hands」ではなく「paws」を使っている(英語で言えば)。これはアンネリーゼ・ミシェルのエクソシズムでも見られたことである。参照
[管4] 告白前の痛悔の祈
「主よ、われは幾度(いくたび)も主に背くまじと決心しながらも、なおしばしば同じ罪に陥りたることを深く心に恥じいり奉る。いかなれば、われは御心に逆らうを知りつつも、いささかなる事のために、重ねて罪を犯したりしぞ。ああわが天主、いと仁慈にして寛容なる御父よ、御身の正義に従いてわれを罰し給うなかれ。されどわれは罪のために受くべき罰を恐るるよりも、むしろ御心に背きしを恥じて、これを悔み奉る。真実に痛悔するわが心をみそなわし、おぼえたる罪とおぼえざる罪とをことごとく赦し給え。われ今罪を忌み憎みて、ことごとくこれを棄つ。もし能わばわが血をもって罪の汚れを洗い潔め、わが持ち物をことごとく献げて御心に背きし罪科(つみとが)を償わんと欲す。願わくは、救世主の聖心(みこころ)にたたえられたる御悲しみの一滴(ひとしず)くをわれに注ぎ給いて、心の底より罪を悔ましめ給え。」(公教会祈祷文より)
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[管5] もちろん、70年代当時と現在では「共同回心式」も多少その内容を変えているかも知れない。次は現在の説明。
共同回心式については、私達が普段受けている「ゆるしの秘跡」は <個別のゆるしの式> と呼ばれ、回心者の個別告白と個別赦免が伴います。それに対し、「共同回心式」には、個別告白と個別赦免を伴う共同回心式と、一般告白と一般赦免を伴う共同回心式があります。(…)
一般告白と一般赦免に与かった信者に大罪があった場合、その赦免を有効に受けるためには、機会を得たときに、その大罪を司祭に告白する決心がなければなりません。
このように二つの様式の「共同回心式」があるそうである。で、「一般告白と一般赦免」では大罪は赦されないとしているのだろうから、これで一見問題ないように見える。しかし、本当は違う。これは理屈ではなく人間の心理に与える影響・効果についての話である。その観点から言えば、「共同回心式」についての規定に上のような内容(明確化)があろうと、彼らの「場面設定(stage setting)」は今も十二分に生きていると言わねばならない。
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