2018.04.05

主日の義務 11

「行かないと罪になるから」と思って日曜の御ミサに行くことは必ずしも「消極的」なことではない。それどころか . . .

もう少し考えよう。

以前取り上げた国井健宏神父様の言葉をもう一度取り上げる。この言葉は2003年のもので、神父様が今でも同じようにおっしゃるかどうかは分からないが、この言い方は或る種「典型的」なものなので、申し訳ないが一つの「サンプル」として再び使わせてもらう。

なぜ、カトリック教会は毎日曜日ミサがあるのですか。

いろんな答があると思いますけども、<だって行かないと罪になるでしょう…>とかね、それが一番消極的な態度ですが(…)。大人の場合は、なぜ行くのか、と言われたら、それは<私が行きたいから行くんです>。なぜ行きたいか。強制されて行くわけではありません。

「全実体変化」 を信じない司祭  国井健宏神父  Part 2

「主日の義務」について語りながら「義務」という語を使わずに、一足飛びに「強制」などという極端な語を使う国井神父様の言語行為は不全である、ほとんど「不正」である──と私は思う。議論

しかし、それはともかく──

国井神父様のこのような言い方に、カトリック信者の99%は頷くのではないか。しかし、私は頷かない。何故なら──

「行かないと罪になるから」と思って日曜の御ミサに行くことは、私には必ずしも「消極的」なことではないように思われる。「必ずしも」である。つまり、ごく上っ面にそう思って行くのは確かに「消極的」だろう。しかし──今「ごく上っ面に」と言ったが──ここには「罪」というものに対する理解の「深浅」の問題がある。

まず、「特に重大な理由もないのに主日の御ミサに行かないこと」は、教会の教えによって「罪」とされている。(参照: 教会法とカテキズム

で、「罪」は重大なことなので、「罪を避けよう」と真面目に思って主日の御ミサを欠かさないことは、私にはとても「消極的」なこととは思えない。

国井神父様は「特に重大な理由もないのに主日の御ミサに行かないこと」を、岡田大司教様と同じく、大したこととは思っていないのではないか。

「罪を避けよう」という思いにも二種類ある。
簡単に言えば、「自分のため」と「神のため」である。

前者は、例えば「罪を犯すと自分の救霊が危うくなるから」等、自分の身を案ずる心から「罪を避けよう」と思うこと。

後者は、純粋に神を愛する心から、「当然愛し奉るべき天主」のために「罪を避けよう」と思うこと。

当然、後者の方が上等ではある。

しかし、「特に重大な理由もないのに主日の御ミサに行かないのは罪になるから」と思って主日の義務を全うしようとすることは、それが後者の純粋な動機によるのであれ、前者のやや保身的な動機によるのであれ、「消極的」と言われるべきものではないだろう。

このことを考えるために、いわゆる「完全なる痛悔」と「不完全な痛悔」について見てみよう。それらについての説明は「カトリック要理の友」にも「教理対話」にもあるけれど、ここでは Laudate の説明を借りよう。

「完全な痛悔」とは、「愛による痛悔」とも言われているもので、すべてを超えて愛すべき神への愛に基づいた痛悔です。ですから、そのような神に背いて自分が罪を犯し、神から離れ去ったことを、心から悲しく感じるのです。(…)

これに対して、「不完全な痛悔」と呼ばれるものもあります。これは、「後悔」という言葉で表現してもいいものです。この気持ちが起こるということも、神の恵みであり、聖霊からの促しがあってのことです。これは、罪の醜さを思う心、あるいは、永遠の罰などへの恐れから生じる「恐れによる痛悔」です。

Laudate

「不完全な痛悔も神の恵みであり、聖霊からの促しがあってのこと」とある。だから、もし人が「主日の義務を怠ると罪になり、自分の救霊は危うくなるかも知れない」と心配するならば、それは「神の恵み」や「聖霊からの促し」によるものであり得る。そして、人は「神の恵み」や「聖霊からの促し」によるものを「消極的」とは呼んではならないだろう。

だから、「だって行かないと罪になるでしょう」と思って主日の御ミサを欠かさないことが「消極的」と見なされなければならないのは、「それは罪である」ということを完全に自分のものにしておらず、ただ「教会ではそういうことになっているから仕方ない」と、上っ面に、形式的に、乗り気なげに、場合によっては渋々気味に、それを欠くことを避ける場合である。

つまり、全てはその人が「罪」ということをどのように捉えているかにかかっている。

それが兎にも角にも「神の掟」だからと心得、神の命に服するの心をもって、自分の多少の事情は乗り越えながら、つまりそのたびに “自己放棄” に近いようなことをしながら、生涯かけて毎日曜の(或いは、その代替の曜日の)御ミサに与り続けることは、なかなか大変な事であって、これだけでも神は御目をとめてくれる筈である──と司祭は信者を励ますべきだろう。

そうして、それを「土台」とした上で、必要なら「しかしそれは、単に表面的な義務感から、あるいは単なる習慣から続ければいいというものではないのです。かくかくしかじか」と説明を加える。
しかし、そう説明することが、たとえ結果的にであれ、「土台」の重要性の印象を聴衆の耳に薄めさせるようなことになるのは、些かもあってはならないだろう。

言葉の問題

言語的生物である人間が「義務」について考える時、やはり「言葉」の問題は避けて通れない。

私が気になるのは、「義務」という言葉が人々によってあまりに「普段使い」の言葉のように使われていることだ。つまり、日常で使っているのと同じような言葉として、そのような感覚で、である。しかし「主日の義務」などは、単に「義務」という言葉で考えていいものではないだろう。常に、それを補足・修飾する言葉と共に言うべきだろう。例えば、「聖なる義務」とでも。

こういうのは意外と大事である。人間にとって「言葉」は大事である。私は以前、日本国憲法の第九条に平気で「福音的」という語を付している司教様方に、「『福音』は本来『聖福音』である。そう呼ばれるべきである。日本国憲法の第九条のことを『聖福音的』と呼べるものなら呼んでみろ」と喧嘩を売ったのである。参照

今度は信徒に犠牲になってもらう。
(同朋よ、許せ。なるべく控えめに引用する)

かみのこひつじ

2015.09.13 Sunday 主日のミサに行かない

今日も主日のミサに行かなかった。

これでもう1か月、主日のミサに参加していないことになる。

(…)

答えは自分でもわかっているのだが、私は今、教会に行くことになんとなく「義務感」を感じてしまっているのである。

教会に行くことに「喜び」を感じていないのだ。

(…)

でも、クリスチャンなんだからミサには行かないとなぁ。

(…)

このような義務感で日曜日の朝に早起きができるはずもなく、

(…)

う~ん…はっきり書いてしまえば、主日のミサで得られるものよりも、惰眠を貪ることのほうに魅力を感じてしまっているんだよな要は。

そして、教会に行かなくても神様は私のことを愛してくださっているから大丈夫、みたいな謎の安心感もある。

一般信徒ということで、あまり批判がましいことは書きたくないが──

「クリスチャンなんだからミサには行かないとなぁ」とある。まあ、その通りである。しかしそれでも、どうも表面的な雰囲気が漂う。(さっき言ったような)

「このような義務感で日曜日の朝に早起きができるはずもなく」とある。この人もおそらく「義務感」という言葉を「普段使い」の言葉のように使っている。日常生活の中で使っているのと何ら変わらない感覚で使っている。

しかし、その「義務」がどこから来たかを考えるべきである。それは「教会を通して」ではあるが「神から」来たのである。だから、この場合、「義務感」という何気ない言葉ではあっても気をつけなければならない。日常語感覚で使ってはならない。

「おっかない嫁に約束させられて、朝のゴミ捨てを義務感でやっている」というのとは違うのである。

次は、「真生会館」関係の問題の多いサイト。
次のような言い方が見られる。

学び合いの会

「主日のミサが不可欠」という与えられたテーマは、主日のミサに与らなければならないというネバ論、与るべきだというベキ論で論じたくない私にはとても苦しみを伴う作業でした。

この人も、「ネバ論」だの「ベキ論」だの言い、「義務」の世界をただ一般的に考えているようだ。確かに「義務」や「掟」の世界は「ネバ」の世界であり「ベキ」の世界である。しかし、もしその「ネバ」も「ベキ」も神から来ていると思い当ったなら、同じように「論じたくない」などと言えるものだろうか?

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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